秋色に染まる紅葉と城の共演を堪能します。
郡山駅前には大きなバスターミナルがありました。そのバスターミナルから観光バスに乗車しました。
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郡山駅のバスターミナルから観光バスに乗車し、二本松霞ヶ城公園に向けて移動します。車内では添乗員から旅のアナウンスがありました。
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郡山駅のバスターミナルから観光バスに乗車し、二本松霞ヶ城公園に向けて移動します。バスの車内では添乗員の旅のアナウンスがありました。また、オプションの食事についてアナウンスと申込用紙が配られました。
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郡山駅のバスターミナルから観光バスに乗車し、二本松霞ヶ城公園に向けて移動します。バスの車内では添乗員の旅のアナウンスがありました。また、オプションの食事についてアナウンスと配られた申込用紙の回収についてのアナウンスもありました。
GOTO旅行支援で行く、8つの紅葉ハーモニー! 宮城蔵王・裏磐梯、五色温泉、みちのく錦秋の絶景紀行の3日間、新幹線と大型バスで行く東北紅葉観光の映像⑪です。
郡山駅のバスターミナルから観光バスに乗車し、二本松霞ヶ城公園に向けて移動します。バスは本宮インターから東北道に入ります。バスの車内ではバスガイドから旅のアナウンスがありました。アナウンスでは福島の簡単な説明などがあった。また、安達太良山の美しい山並みも眺めました。
安達太良山(別名:岳山、安達太郎山)は、福島県中部に位置する活火山であり、日本百名山、新日本百名山、花の百名山、およびうつくしま百名山に選定されています。この山は奥羽山脈に属し、南部に広がる成層火山群です。主なピークには以下が含まれます。
1. 鬼面山(標高1,482メートル)
2. 箕輪山(最高峰、標高1,728メートル)
3. 鉄山(標高1,709メートル)
4. 沼ノ平火口
5. 篭山(標高1,548メートル)
6. 矢筈森(標高1,673メートル)
7. 船明神山(標高1,667メートル)
8. 薬師岳(標高1,322メートル)
9. 和尚山(標高1,602メートル)
10. 前ヶ岳(標高1,340メートル)
安達太良山は、玄武岩と安山岩から成る成層火山で、約2,400年前の噴火以降はマグマ噴出が時折見られる程度です。この山は美しい景観と高山植物が魅力で、観光スポットとしても人気です。また、岳温泉や周辺の温泉地も訪れる価値があります。
安達太良山にはいくつかの登山ルートがあります。以下にいくつかの選択肢をご紹介します。
1. 岳温泉口からのルート(最も容易なルート)
- あだたらエクスプレス(ロープウェイ)を利用して山頂を目指します。
- 所要時間は約1時間30分です。
2. 塩沢口からのルート
- 所要時間は約3時間30分です。
3. 野地温泉口からのルート
- 箕輪山経由の縦走で、約5時間かかります。
4. 石筵口からのルート
- 和尚山経由で約4時間30分かかります。
安達太良山は美しい景観と多彩な登山コースが魅力です。どのルートを選んでも、素晴らしい山の景色と温泉を楽しめることでしょう。安全な登山を心掛けて、楽しい山行をお過ごしください!🏔️🥾
福島県二本松市にある岳温泉は、安達太良山の中腹に広がる爽やかな高原の温泉地です。この温泉は、豊かな水と緑に恵まれ、国民温泉保養地でもあります。自然に囲まれつつも、昔ながらの温泉街の風情を感じることができます。
安達太良山は日本百名山にも数えられており、登山初心者や家族連れでも気軽にトレッキングを楽しむことができ、1年を通して多くの登山客に愛されています。
岳温泉には以下の観光施設があります。
- 源泉100%かけ流しの岳温泉: お好みのお宿をお探しください。ご宿泊せずとも、岳温泉をご堪能いただけます。
- お食事処、お土産屋、その他商店**: 岳温泉は、訪れる時間や一緒に来る人によって様々な楽しみ方ができます。温泉街を散策するもよし!アクティブに遊ぶもよし!夜からだって岳温泉を満喫できます。
岳温泉は、福島県二本松市にある活火山**安達太良山**の中腹に広がる温泉地です。その歴史は古く、約1200年にもさかのぼります。
以下は岳温泉の歴史の要点です。
1. 平安時代から続く温泉場
- 平安時代には京都でも知られていた温泉で、江戸時代中期には「陽日(ゆい)温泉」と呼ばれ、源泉地付近に温泉街がありました。湯女も許可され、歓楽温泉場として賑わっていました。
2. 土砂崩れと再建
- 1824年に土石流によって温泉街が埋まり、200人以上の死傷者を出す大惨事となりました(岳山変事または岳山崩れ)。
- その後、1825年に別の場所に移転して「十文字岳温泉」を名乗り、温泉街を再建。この時から引湯管を用いた温泉供給が始まりました。
3. 現在の岳温泉
- 1955年に国民保養温泉地に指定され、現在も多くの人々に愛されています。
- 岳温泉旅館協同組合は、1982年に「ニコニコ共和国」を「開国」し、画期的な施策を実施。ミルキーデイと呼ばれる週に一度の乳白色のにごり湯も名物です。
岳温泉は、福島県二本松市にある活火山安達太良山の中腹に広がる温泉地です。この温泉は、豊かな水と緑に恵まれ、国民温泉保養地でもあります。
岳温泉のお湯は酸性泉であり、その特性によってさまざまな効能があります。
1. 殺菌力が高い
- 酸性泉は細菌を効果的に殺菌するため、慢性皮膚炎やアトピーなどの皮膚病に効果があります。
2. 美容効果
- 酸性成分がお肌の角質を溶かすことから、美容効果が高いとされています。過去には「楽天トラベル 美肌の湯ランキング」で全国3位に選ばれたこともあります。
3. 主な効能
- 神経痛、筋肉痛、関節痛、五十肩、運動麻痺、関節のこわばり、うちみ、くじき、慢性消化器病、痔疾、冷え性、病後回復期、疲労回復、健康増進などに効果があります。
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郡山駅のバスターミナルから観光バスに乗車し、二本松霞ヶ城公園に向けて移動します。バスは二本松インターで東北道を降ります。バスの車内ではバスガイドから旅のアナウンスがありました。アナウンスではこのバスはオールスター観光のバスとのこと。岳温泉についてなど。
オールスター観光は、福島県を拠点に活動するバス会社です。創業以来、福島県の観光地やイベントへの送迎、研修旅行、団体旅行など、様々な目的でお客様にバスを提供しています²³⁴. 以下はオールスター観光についての詳細情報です。
①会社概要
- 社名: 株式会社 オールスター観光
- 代表取締役: 佐藤洋一
- 所在地: 福島県田村郡三春町大字山田走り折14-1
- 電話番号: 0247-62-6048
- FAX: 0247-62-6358
②営業所
- 福島県内に4か所の営業所を構えています。
- 東京都内にも1か所の営業所があります。
③バスの種類
- 大型バス、中型バス、小型・マイクロバスを取り揃えており、お客様のご希望にできる限りお応えいたします。
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郡山駅のバスターミナルから観光バスに乗車し、二本松霞ヶ城公園に向けて移動します。バスは二本松霞ヶ城公園に到着します。バスの車内ではバスガイドから旅のアナウンスがありました。アナウンスでは名物の玉島屋の「玉羊羹」、お城の石垣のようなトイレなどについて。
福島県には数多くの歴史的な城があります。以下はその中でも代表的ないくつかの城を紹介します。
1. 会津若松城(別名:鶴ヶ城、若松城、黒川城、会津城):福島県会津若松市にある城で、平均評価は★★★★☆で、見学時間は約1時間28分です。
2. 白河小峰城(別名:白河城、小峰城):福島県白河市に位置しています。
3. 二本松城:福島県二本松市にある日本100名城の一つで、築城年は応永21年(1414年)頃です。丹羽光重や二本松藩歴代藩主の丹羽家が主な城主でした。遺構には天守台、石垣、堀切が含まれており、霞ヶ城公園として整備されています。
これらの城は、福島県の歴史と文化を象徴しています。城巡りを楽しんでください!🏯
霞ヶ城(別名:鶴ヶ城、若松城、黒川城、会津城)は、福島県二本松市にある日本の城で、平山城として築かれました。以下は霞ヶ城の主な見どころです。
1. 箕輪門: 丹羽光重公が築城にあわせて建設した門で、「箕輪門」と命名されました。石垣と城壁は十万石大名の威容を示していました。戊辰戦争によって灰燼と帰しましたが、昭和57年(1982年)に再建されました。
2. 少年隊群像: 戊辰戦争でふるさとを守るために若い命を散らした、二本松少年隊を顕彰する群像です。
3. 戒石銘(国史跡): 五代藩主・丹羽高寛公が、藩政改革と綱紀粛正の指針として刻んだ自然石です。
4. 洗心亭: 元々は丹羽藩主時代の茶室で、後に現在地に移されました。
5. 丹羽神社: 歴代藩主丹羽家が祀られている所です。
6. 日影の井戸: 「日本三井戸」の一つで、井戸の深さ16メートルで、井戸の岩盤をえぐっています。
7. 本丸跡: 平成19年に「二本松城跡」として国史跡指定されました。
8. 搦手門跡: 城の裏面にあたる門で、石垣と門柱を建てた礎石が残っています。
9. 智恵子抄詩碑: 詩人・彫刻家の高村光太郎が詠んだ「樹下の二人」の冒頭の句を刻んだ自然石です。
10. 日影の井戸: 「日本三井戸」の一つで、井戸の深さ16メートルで、井戸の岩盤をえぐっています。
11. 加藤口寸句碑: 俳人であり郷土史研究家の加藤口寸の句碑です。
12. 旧奥州街道: 古色豊かな旧奥州街道が「日本の道百選」に選定されています。
霞ヶ城(別名:鶴ヶ城、若松城、黒川城、会津城)は、福島県二本松市にある日本の城で、平山城として築かれました。以下は霞ヶ城の主な歴史的要点です。
①築城と初期の歴史
- 室町時代中期、畠山氏7代当主である二本松満泰によって築かれました。この城は梯郭式の平山城で、標高345メートルの「白旗が峰」に位置しています。
- 戦国時代には伊達政宗の攻撃を受け、何度も攻防が繰り広げられました。
②丹羽光重との関連
- 江戸時代には二本松藩主である丹羽光重が城主となり、大規模な改修を行いました。この時から「霞ヶ城」と呼ばれるようになりました。
- 戊辰戦争の際、城内と家中屋敷がすべて焼失し、城は落城しました。
③現在の状況
- 現在は「霞ヶ城公園」として整備されており、石垣や再建された箕輪門があります。
- 山上の本丸には天守台と石垣が近年になって再構築されました。
④その他の要素
- 二本松少年隊と呼ばれる少年兵も動員された戊辰戦争の攻城戦で、城の建物の多くが焼失しました。
- 現在は日本さくら名所100選に選定されている美しい公園として親しまれています。
戊辰戦争は、明治初期に日本で起こった内戦で、旧幕府軍と新政府軍が対峙しました。以下は戊辰戦争の要点です。
①背景と原因
- 戊辰戦争は、幕末から明治維新に至る政治的変革の過程で発生しました。
- 新政府軍は薩摩藩、長州藩、土佐藩などを中心としており、徳川慶喜率いる旧幕府軍と対立していました。
②主な戦闘
- 鳥羽・伏見の戦い、上野戦争、北越戦争、箱館戦争などが戊辰戦争の主な戦闘です。
- 会津戦争では、福島県の会津若松城が攻防の舞台となりました。
③結果
- 新政府軍が勝利し、国内の他の交戦団体が消滅しました。
- 明治新政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められました。
戊辰戦争は日本の近代史で最大の内戦であり、明治維新の重要な出来事でした。
二本松少年隊は、幕末の二本松藩において戊辰戦争に出陣した12歳から17歳の少年兵部隊でした。彼らは幕府側で戦いました。ただし、当時は隊名がなく、二本松少年隊と名づけられたのは戊辰戦没者五十回忌に刊行された「二本松戊辰少年隊記」からでした。
戊辰戦争への出陣は14歳未満では不可能でしたが、二本松藩には危急の際には年齢を2歳加算する入れ年(実年齢より高い年齢として出兵の許可を出す)という独自の制度があり、最少年齢の隊士の年齢は12歳となってしまいました。この少年隊は、木村銃太郎指揮下の25名が特に有名で、彼らは大壇口守備隊の大砲方銃士隊として編成されていました。
大壇口での戦いにおいて、木村をはじめ多くの少年たちが戦死しました。彼らの悲劇は戊辰戦争におけるひとつの悲劇として知られています。現在では、紺野庫治氏の最終調査研究結果報告により、62名の隊士を定義しています。この中には、幼年隊と呼称されていた当初の木村隊の隊士も含まれています。
二本松少年隊は、日本の歴史において勇敢な少年たちの犠牲と勇気を讃える存在となっています。大隣寺や霞ヶ城公園などの歴史的な場所で、彼らを偲ぶことができます。
霞ヶ城公園にあるバス専用の駐車場、城山第一駐車場付近から、ボランティア・ガイドに先導されて霞ヶ城公園を案内いただきます。
霞ヶ城公園観光の前に、まずはトイレタイムでした。右の写真の左下の白い建物がトイレです。上の右の図にある「WC」に行くトイレ・タイムを与えられました。
さあ、霞ヶ城公園観光のスタートです。私たちの観光コースはこの先にある赤い三角コーンのところで左に曲がります。この写真の右奥に小さく見えるものは観光の石碑があります。この観光ポイントも後で見たいものです。
旧二本松藩戒石銘碑は、福島県二本松市に所在する国指定史跡です。この石碑は、二本松藩の第7代藩主である丹羽高寛公が、儒学者の岩井田昨非の進言に従い、藩士たちに戒めとなる言葉を刻んだものです。
この石碑は、二本松城址(霞ヶ城址)に位置しており、江戸時代から明治元年までの約220年間、丹羽氏の10万700石の居城でした。石碑は、藩庁の通用門前に露出していた自然石(花崗石)に刻まれています。その内容は、以下の通りです。
「爾俸爾禄。民膏民脂。下民易虐。上天難欺。」
この文言は、縦1.03メートル、横1.82メートルの面に、4句16字で刻まれています。解釈すると、「お前の俸禄は民が汗と脂で得ているものだ。民に感謝し、いたわらなければならない。この気持ちを忘れて弱い民を虐げると、天罰があるだろう」という意味になります。
この戒石銘は、二本松藩士の士風を奮い立たせた重要な存在であり、明治戊辰の戦役では藩の子弟が奮戦し、重臣たちは武士の亀鑑(模範)を示すために城を枕に自刃しました。その余香は、この戒石銘に宿っていると言えるでしょう。
昭和10年(1935年)12月24日に教育資料として、また行政の規範として価値の高いものとして、国史跡「旧二本松藩戒石銘碑」として指定されました。
この石碑は、中国の起源を持つものであり、日本の平安時代中頃に誕生し、各州県の門前に広く建てられたことがわかっています。岩井田昨非博士による研究により、その起源が詳細に説明されています。
最初の観光ポイントは霞ヶ城の高い石垣です。立派な石垣です。ここは一般観光客のための駐車場になっているようです。ガイドに案内されてここを通りました。
さあ、みんなで本丸を目指して登城です。前に写り込んでいるのが今回のツアーのメンバです。
「霞ヶ城址」の石碑がありました。
二本松少年隊の石像がありました。鮮やかな菊で飾られて美しかったです。
二本松少年隊は、幕末の二本松藩において戊辰戦争に出陣した12歳から17歳の少年兵部隊でした。彼らは幕府側で戦いました。ただし、当時は隊名がなく、二本松少年隊と名づけられたのは戊辰戦没者五十回忌に刊行された「二本松戊辰少年隊記」からでした。
戊辰戦争への出陣は14歳未満では不可能でしたが、二本松藩には危急の際には年齢を2歳加算する入れ年(実年齢より高い年齢として出兵の許可を出す)という独自の制度があり、最少年齢の隊士の年齢は12歳となってしまいました。この少年隊は、木村銃太郎指揮下の25名が特に有名で、彼らは大壇口守備隊の大砲方銃士隊として編成されていました。
彼らは二本松城を守るために出陣しましたが、多くが戦死しました。その中でも、木村銃太郎率いる25名は特に記憶に残っています。彼は藩の西洋流(高島流)砲術師範であり、隊士たちは彼の父・木村寛治の開いた木村道場の塾生でした。彼らは大壇口での戦いで命を落とし、その悲劇は戊辰戦争におけるひとつの悲劇として知られています。
現在では、紺野庫治氏の最終調査研究結果報告により、二本松少年隊の定義は62名に拡大されています。彼らの勇気と犠牲は、日本の歴史に深く刻まれています。
二本松少年隊の名を持つ場所や顕彰碑も存在し、彼らの記憶は今もなお大切にされています。
霞ヶ城公園は、福島県二本松市にある観光スポットで、国史跡である二本松城跡があります。箕輪門はその一部で、興味深い歴史的背景を持っています。
- 箕輪門
- 丹羽光重公は、霞ヶ城築城にあわせて門の建設も行いました。
- 材料となる樫(カシ)の木を領内全域に手を尽くして求めた結果、箕輪村(現在の二本松市内)山王寺山のご神木を主材として、この門を楼門として立派に完成させました。
- この門は「箕輪門」と命名され、石垣と堂々たる城壁、城門は十万石大名の威容を示していました。
- 戊辰戦争によって灰燼と帰しましたが、昭和57年(1982年)に再建されました。
また、公園内には他にも多くの見どころがあります。例えば、少年隊群像や戒石銘、洗心亭、丹羽神社、日影の井戸、本丸跡などがあります。公園内の約2500本の桜も美しい季節には訪れる価値があります。
箕輪門は、霞ヶ城公園内にある特徴的な門です。以下はその特徴です。
①建設者と歴史
- 丹羽光重公が霞ヶ城築城に際して建設した門です。
- 樫の木を主材として立派に完成させました。
②石垣と城壁
- 箕輪門は十万石大名の威容を示すために石垣と城壁が組み合わさっています。
③再建
- 戊辰戦争で灰燼と帰した後、昭和57年(1982年)に再建されました。
丹羽光重は、江戸時代前期の大名であり、陸奥国白河藩の第2代藩主でした。後に陸奥二本松藩の初代藩主となりました。彼の生涯と業績を見てみましょう。
①生い立ちと家族
- 元和7年(1622年2月8日)に、丹羽長重の三男として誕生しました。幼名は「宮松丸」です。
- 丹羽家は報恩院という織田信長の娘を正室に迎えており、光重は報恩院との間に生まれました。
②藩主としての業績
- 寛永14年(1637年)に父・長重の死去により白河藩主となりました。
- 寛永20年(1643年)には二本松藩に移封され、初代藩主となりました。彼は安達郡と安積郡を統治しました。
- 藩政に手腕を発揮し、城郭や道路、城下町の整備を行いました。
③文化人としての一面
- 茶人としての号は「半古庵」、画家としての号は「玉峰」でした。
- 茶道や絵画、華道、書道に造詣が深く、文化の興隆に尽力しました。
- 仏教や学問の普及にも努め、高僧を招聘して寺院を建立しました。
④隠居と死去
- 延宝7年(1679年)に嫡子・長次に家督を譲り、隠居しました。この際、「玉峰」と称しました。
- 元禄14年(1701年)に享年80で亡くなりました。
丹羽光重は、名君として知られ、文化振興や藩政の整備に尽力した人物であります。🏯🌸
箕輪門の再建は以下の通りです。
- 箕輪門の再建
- 昭和57年(1982年)に、箕輪門と二階櫓、多聞櫓が復元されました。
- これにより、遠くからも山の頂上の天守台が見えるようになりました。
また、箕輪門は二本松少年隊として知られる若い少年たちが動員された戊辰戦争で焼失した城の一部です。現在は県立霞ヶ城公園として整備され、石垣と箕輪門が再建されています。
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二本松霞ヶ城公園バス駐車場でバスから降り、地元のボランティア・ガイドの案内でお城を観光します。箕輪門前でガイドからは「箕輪門」「家紋」などについて説明されました。
二本松藩の家紋は「丹羽筋違」です。この家紋は「違棒(ちがいぼう)」または「直違紋(すじちがいもん)」とも呼ばれ、大隣寺の寺紋にも使用されています。丹波家の歴代藩主の墓石や灯籠にも刻まれていることで知られています。
この家紋は「☓」という形をしており、非常に分かりやすく覚えやすいものです。丹波家は二本松藩で欠かせない存在であり、戦国末期から江戸初期にかけて長らく統治していました。二本松藩は福島県を代表する城下町であり、日本100城にも選ばれた「二本松城」がその象徴です。
この家紋の由来にはいくつかの伝承があります。一つは、織田信長公のもとで織田四天王と呼ばれた丹羽長秀公の馬印(大将の存在を示すしるし)が、竹の枝に金の短尺を飾り付けたもので、「えづる竹に金の短尺」と称されていたとされています。合戦が終わってこの馬印を見たところ、奮戦のために短尺は散ってしまい、2枚だけがバッテン十字状に残っていたとの説もあります。
また、別の説では、合戦の後で血の付いた刀を袖で拭った後に、バッテン状に血のりがついたため、豊臣秀吉から「家紋としたがよかろう」との言葉があって、この紋が定められたとも伝えられています。
丹波筋違の家紋は、二本松藩の歴史と伝統を象徴する重要な要素であり、その意味を探求することは興味深いものですね。
以下に、二本松藩の歴史の要点を簡潔にまとめてみましょう。
1. 前史
- 戦国時代まで、二本松は畠山氏の所領でした。
- しかし、天正14年(1586年)に伊達政宗が畠山氏を滅ぼして伊達領に組み込まれました。
2. 蒲生氏郷の時代
- 豊臣秀吉の命令により、二本松は会津の領主である蒲生氏郷の領地となりました。
- 蒲生氏郷は織田信長の娘婿であり、以前は伊勢に所領を持っていました。
3. 丹羽家の時代
- 丹羽光重が10万7000石で二本松藩に入りました。
- 光重は織田信長の重臣で、名家の出自から国主格の待遇を受けました。
- 二本松城や城下町の整備、法制確立、学術振興などが行われました。
4. その後の藩政
- 藩政は幕府の公役負担により困難を極めました。
- 藩主たちは財政難に直面し、藩政改革を試みましたが、苛政や災害により領民は苦しんだ時期もありました。
伊達政宗と畠山氏の関係は、戦国時代の東北地方において複雑で興味深いものでした。以下にその概要を説明します。
1. 畠山氏と伊達政宗の接点
- 畠山氏は、福島県二本松市にある二本松城を拠点としていました。
- 伊達政宗は、伊達家の当主として、福島県と宮城県にわたる大きな領土を手に入れていました。
- 伊達政宗は、畠山氏との関係において、父の伊達輝宗との意見対立がありました。
2. 伊達輝宗と畠山義継の降伏と和睦
- 伊達氏に追われた大内定綱は、畠山義継を頼りました。
- これを契機に、伊達氏は畠山攻めを決行しました。
- 結果として、大内定綱は会津へ亡命し、畠山義継は降伏を許され、一部の所領を残し、他の所領を伊達氏に割譲しました。
- 伊達政宗は、降伏は認められないと主張し、父の輝宗は和睦を主張し、政宗は輝宗に従った形となりました。
3. 政宗と畠山義継の対立
- 畠山義継は、輝宗の命を楯にして、所領回復を試みた可能性があります。
- 伊達政宗は、義継を討ち取り、輝宗も死亡しました。
- 伊達政宗は、畠山氏に対して怒りを表し、二本松城を攻撃しましたが、城はなかなか落ちませんでした。
- 畠山氏の救援に、佐竹・蘆名・岩城・白川氏の連合軍がやってきましたが、政宗はこれを退けました。
- 義継の跡を継いだ畠山義綱は無血開城し、二本松城は伊達氏の手に落ちました。
4. 現在の状況
- 復元された二本松城の石垣は見事であり、戊辰戦争時に活躍した二本松少年隊の碑も見事です。
このように、伊達政宗と畠山氏の関係は、歴史的な出来事と人々の意志の交錯によって複雑に絡み合っていました。