日光藩は、1869年(明治2年)に下野国内の幕府領と旗本領を管轄するために明治政府によって設置された藩でした。この藩は、現在の栃木県に広く分布している地域を支配していました。
1. 戊辰戦争(1868年)
- 日光藩は、戊辰戦争の舞台となりました。この戦争では、宇都宮など関東内で戦闘が行われ、宇都宮城の戦いなどがありま
した。
- 1868年6月、佐賀藩士の鍋島道太郎が真岡知県事に任命されました。
- 8月には日光領が収公され、日光藩の成立につながりました。
2. 藩の成立と改称
- 1869年2月、鍋島知県事は旧日光奉行所に入り、日光県と改称しました。この際、真岡知県事の管轄領と併せて日光県とな
りました。
- 1870年には移封となった高徳藩、廃藩となった喜連川藩の領地も編入されました。
3. 廃藩と栃木県の成立
- 1871年、第1次府県統合に伴い、下野国南部の5県と上野国の館林県が統合して栃木県が成立しました。
- 下野国北部の管轄区域には宇都宮県が設置され、同日、日光県は廃止されました。
大内宿の街路中央には両側に小川が流れており、日本の音100選にも選ばれています。この小川は現在は街路の両側にあるものですが、1886年(明治19年)以前は街路中央に位置していました。
大内宿では荷物の運搬が頻繁に行われていたため、多くの馬が飼われていました。その馬をつなぎとめるために街路中央に小川が流れていたと考えられています。宿場町ならではの特徴ですね。また、大内宿は半宿半農であったため、一般的な農耕牛ではなく農耕馬を使っていたり、馬を使った商売も行われていたりしたそうです。村人と馬との間には深い繋がりがあったようです。
大内宿が大内宿が重要伝統的建造物群保存地区に選定された経緯です。
- 昭和40年代には外部の研究者らが大内宿の生活調査や建築物調査などで盛んに来訪するようになり、旧宿場の街並みが再評
価されるようになりました。
- 特に、昭和42年に会津の茅職人の調査に訪れた武蔵野美術大学の相沢韶男(つぐお)教授(当時学生)は、宿場町を保存す
る必要を村に訴え続けました。
- そして、昭和56年4月18日に、重要伝統的建造物群の指定を受けることに至りました。この際、道路を覆っていたアスファル
トもはがされ、「土の道」に戻されました。
- 現在では、毎年一度、重要文化財を守るための設備の点検として、茅野屋根の街並みに「放水の水しぶき」が見られます。
重要伝統的建造物群保存地区(略称: 重伝建地区または重伝建)は、日本の文化財保護法に規定される文化財種別の一つです。この制度は、昭和50年の文化財保護法の改正によって始まりました。具体的には、歴史的な風致を形成している伝統的な建造物群を、新しいカテゴリーの文化財として残すことを目的としています。
重要伝統的建造物群保存地区の選定基準は以下の通りです。
1. 伝統的建造物群全体で特に優れたデザイン: 建物や町並みが美しく、独自のデザインを持っていること。
2. 伝統的建造物群と地割が昔からの状態を保っている: 歴史的な配置や構造が現在も保たれていること。
3. 伝統的建造物群と周辺環境が地域の特徴を表している: 周辺の自然環境や風景と調和し、地域の特性を反映していること。
市町村が伝統的建造物群保存地区を決定し、国(文部科学大臣)が特に価値が高いと認めた地区を選定します。これにより、歴史的な町並みや集落が保護され、後世に伝えられることが目指されています。現在、全国に約30,250件の伝統的建造物及び環境物件が特定され、重要伝統的建造物群保存地区として保護されています。
日本には多くの重要伝統的建造物群保存地区があります。以下はいくつかの有名な場所です。
1. 香取市佐原伝統的建造物群保存地区(千葉県)
- 香取市の中心部に流れる小野川と交差する香取街道沿いの地区が指定されています。江戸情緒が残る街並みが特徴で、国指
定史跡の伊能忠敬旧宅や千葉県有形文化財の三菱館などがあります。
2. 金沢市東山ひがし伝統的建造物群保存地区(石川県)
- 金沢市の東山ひがし地区は、美しい茅葺屋根の建物や伝統的な町並みが残る場所です。観光客に人気で、歴史的な価値が高
く評価されています。
3. 白川村(白川郷)伝統的建造物群保存地区(岐阜県)
- 白川村は、合掌造りの民家が美しい風景を作り出す場所として有名です。四季折々の風景が楽しめ、観光客に人気の観光ス
ポットです。
南木曽町妻籠宿は、長野県南木曽町にある中山道の宿場町です。江戸時代から数えて42番目の宿場町であり、保存状態が良く、古き時代を感じさせる風情ある町並みが残されています。妻籠宿は、日本で初めて重要伝統的建造物保存地区に選ばれた宿場町の一つです。
妻籠宿の魅力をいくつかご紹介します。
1. 風情ある町並み
- 妻籠宿は、木曽の宿場の中でも特に保存状態が良く、古き時代を感じさせる風景が残っています。武家町の秋田県の角館や
門前町の京都市産寧坂と並び、日本で初めて重要伝統的建造物保存地区に選ばれた宿場町として知られています。
2. 観光スポット
‐ 妻籠宿内には、伝統的な茅葺屋根の建物や歴史的な街並みが点在しています。散策しながら、当時の雰囲気を楽しむことが
できます。
- 妻籠観光案内所では、地元のパンフレットやマップが豊富にそろっており、観光情報を提供しています。
3. アクセス
- JR中央本線南木曽駅からおんたけ交通のバスで約7分で妻籠宿に到着できます。
奈良井宿は、中山道(木曽路)に位置する日本の宿場町で、江戸時代の建造物や伝統文化が色濃く残る観光スポットです。以下は、奈良井宿についての詳細です。
- 町並みと歴史
- 奈良井宿は、中山道で最も栄えた宿場町の一つとして知られています。木曽十一宿の中では最も賑わった場所で、日本最
長の宿場町としても知られています。
- 町並みは国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されており、往時の面影を色濃く残しています。
- 観光スポット
- 奈良井宿は、江戸時代の建物や伝統文化を感じることができる場所です。古い街並みを散策しながら、当時の雰囲気を楽
しむことができます。
- 奈良井宿観光案内所や五ヶ寺、木曽の大橋などがおすすめの観光スポットです。
高倉神社は福島県下郷町にある唯一の神社で、古くから高倉宮以仁王を祀っています¹。大内宿は江戸時代の町並みを今に残す宿場で、下野街道と呼ばれた会津と日光を結ぶ街道の両脇に茅葺き屋根の民家が並び、江戸へ向かう大名や旅人の宿駅として重要な役割を果たしていました。
高倉神社は、大内宿を含む近隣7郷の総鎮守とされています。神社の創建には伝承があります。治承4年(1180)に、高倉宮以仁王(後白河天皇の第3皇子)は平家によって朝廷が支配されるのを危惧し、源頼政と共に平家打倒を画策しました。しかし、計画が露呈し、平家から追討の軍が派兵され、宇治川の戦いで敗北を喫しました。一般的な史実では高倉宮以仁王がここで命を落としたとされていますが、大内宿に伝わる伝承では密かに戦場から脱出し、東山道と沼田道を抜けて当地に辿り着いたとされています。大内宿の佐藤家(玉屋)では以仁王が滞在中に御世話をしたとし、高倉神社の永代御頭家になったと伝えられています。また、大内宿の郊外には以仁王の愛妾で当地まで追いかけてきたもの病気で死去した桜木姫の墓碑が建立されています。
高倉神社は古くから神仏習合し、高倉大明神と呼ばれていましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏教色は一掃され、明治3年(1870)に社号を「高倉神社」に改称し村社に列しています。拝殿や本殿は伝統的な建築物で、大内宿が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された際にも選ばれています。
高倉神社の社殿の背後には「王三段」と呼ばれる地域があり、一番高い段には以仁王の宮殿、2段目と3段目は家臣の屋敷があったとされています。祭神は高倉宮以仁王で、桜木姫も配祀されています¹。例祭の「半夏祭り」は古式を伝える貴重な行事として下郷町指定無形民俗文化財に指定されています。
桜木姫の伝説は、福島県下郷町の大内宿に残る感動的な物語です。江戸時代、この地には平家を討とうとして敗れた後白河天皇の第二皇子である高倉宮以仁王が落ちのび、彼に付き従った妃の紅梅御前と側近の桜木姫がしばらく山中に住んでいたと伝えられています。
桜木姫は高倉宮以仁王の正室である紅梅御前の側室でした。彼女たちは以仁王の後を追ってここ大内まで辿り着きましたが、長旅の疲れから病に伏し、虚しくも18歳という若さで亡くなったといわれています。彼女の名前は、病で倒れた姫の杖から桜が咲いたことに由来しています。現在、彼女の墓の傍には桜の木が植えられており、春になると可憐な花が咲き誇ります。
神仏習合は、日本に土着の神様を祀る神道とインド発祥の仏教が互いに影響し融合した宗教現象です。ここでは、神仏習合の歴史的な流れや現在でも神社寺院で見られる神仏習合の例を紹介します。
日本に仏教が伝来した当初は、「仏教が主で神道が従」という立場でした。しかし、平安時代には神前での読経や神に菩薩号を付ける行為などが増え、神道と仏教の融合が進みました。特に「本地垂迹説」と呼ばれる理論が台頭し、阿弥陀如来の垂迹を八幡神、大日如来の垂迹を伊勢大神とする考え方が広まりました。鎌倉時代には両部神道としての理論化も行われました。
また、神道側からは「神道が主で仏教が従」とする反本地垂迹説も唱えられました。江戸時代には国学が流行し、神道が優位とされ、神道から仏教的要素を取り除く動きもありました。明治維新後には「神仏判然令」が出されて神仏分離が行われました。
神仏習合は、日本の神と仏が混ざり合い、同一視される流れを表しています。この現象は、日本の宗教文化において重要な要素であり、神社や寺院で見られる神仏習合の例は数多く存在します。
1. 鳥居のあるお寺
- お寺の境内に鳥居がある例があります。奈良県の宝山寺は真言宗の仏教寺院で、不動明王を本尊としています。このお寺
の境内には鳥居があり、神仏習合の時代の姿が見られます。
2. 境内にお寺がある神社
- 世界遺産の日光東照宮は神仏習合の考え方を現す存在です。神社の中には本地堂(薬師堂)という建物があり、ここには薬
師如来という仏像が祀られています。この本地堂は明治期の廃仏毀釈の流れを免れた珍しい建物です。
3. 神仏習合の神様
- 大黒様は七福神でおなじみの神様で、神道の大国主命と仏教の大黒天が習合した存在です。彼は富貴栄達や縁結びのご利
益を持ち、神道由来と仏教由来の二つのご利益を受け継いでいます。
4. 弁財天
- 弁財天も七福神の一人で、金運や財運を司る神様です。本来は仏教の神様であり、源流はインドの神様ですが、日本では
神仏習合の影響で広く信仰されています。
本地垂迹説は、日本において神道と仏教が融合した思想の一つです。
- 本地垂迹とは、仏教が興隆した時代に発生した神仏習合の考え方です。この思想によれば、神道の八百万の神々は、実は
様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた存在であるとされています。
- 本地は本来の境地やあり方を指し、垂迹は神仏が現れることを意味します。究極の本地は宇宙の真理そのものである法身で
あり、これを本地法身と呼びます。また、権現とは「臨時の」「仮の」を意味し、仏が神の形を取って仮に現れたことを示し
ます。
- 本地垂迹説は、仏教が各地で布教される際、土着的な宗教を包摂する傾向から生まれました。たとえば、仏教の天部の神々
の多くはインドのヒンドゥー教を由来としています。この思想は後に、本地仏(大日如来の化身)が不動明王などの加持身で
あるという概念を生み出しました。
- 一方で、反本地垂迹説も存在します。これは神道側から仏教に独立しようとする考えから生まれたもので、伊勢神道などで
展開されました。しかし、本地垂迹説は神仏習合の中で発展し、日本の宗教文化に深く根付いています。
両部神道は、仏教の真言宗(密教)の立場からなされた神道解釈に基づく神仏習合思想です。この思想は、日本の神と仏が交わり融合した状況を表しています。
- 概要
- 両部神道は、密教の金剛界と胎蔵界の両部の理論をもとに、日本の神と仏の関係を位置づけた思想です。
- 密教では、宇宙は大日如来の顕現であるとされています。この大日如来を中心にした金剛界曼陀羅と胎蔵界曼陀羅の儀規
に描かれた仏菩薩を本地とし、日本の神々をその垂迹として解釈したのが両部神道です。
- 思想
- 両部神道では、伊勢内宮の祭神である天照大神は胎蔵界の大日如来であり、光明大梵天王であり、日天子であるとされま
す。
- 一方、伊勢外宮の豊受大神は金剛界の大日如来であり、尸棄大梵天王であり、月天子であるとされます。
- そして、伊勢神宮の内宮と外宮は胎蔵界と金剛界の両部で、この両部が一体となって大日如来の顕現たる伊勢神宮を形成
しているとされています(二宮一光説)。
神仏習合は、日本だけでなく、他の国でも類似の宗教的融合が見られることがあります。
1. 中国
- 中国では、仏教と道教(中国の土着宗教)の影響が相互に交わり、神仏習合が進みました。仏教寺院には道教の神々を祀
る場所があり、また、道教寺院には仏教の菩薩や仏像が祀られています。
2. ベトナム
- ベトナムでは、仏教と儒教(中国の儒学思想)が融合した宗教文化があります。仏教寺院には儒教の聖人である孔子を祀
る場所があり、また、儒教の祭祀には仏教の要素も含まれています。
3. 韓国
- 韓国でも仏教と儒教の影響が深く、神仏習合的な要素が見られます。仏教寺院には儒教の聖人である孔子を祀る場所があ
り、また、儒教の祭祀には仏教の要素も含まれています。
神仏習合は日本に特有の現象ですが、他の宗教でも類似の宗教的融合が見られることがあります。例えば、キリスト教においても以下のような現象があります。
1. キリスト教と先住民信仰の融合
- アフリカやラテンアメリカなどで、キリスト教と先住民の伝統的信仰が融合しています。キリスト教の神聖な場所や聖人
を先住民の神々と同一視することがあります。
2. キリスト教と儒教の影響
- 中国や韓国などで、キリスト教と儒教(中国の儒学思想)が融合した宗教文化があります。キリスト教の神聖な教義と儒
教の倫理観が交わり、独自の信仰体系が形成されています。
3. キリスト教とアフリカ伝統宗教
- アフリカの一部の地域では、キリスト教とアフリカ伝統宗教が融合しています。キリスト教の聖職者が伝統的な儀式を行
ったり、聖書の教義とアフリカの神々を結びつけたりすることがあります。
神仏判然令は、明治元年(1868年)3月27日に太政官から発せられた公文書で、従来の神仏習合の風をこわすために出された政策を指します。この政策は、明治政府が神道を国教化するために実施したもので、仏教を排除し、神道を極度に重視する過激な廃仏毀釈運動を引き起こしました。
具体的には、神仏判然令によって以下のような規定が定められました。
1. 仏教の排斥
- 仏教語を神号とすることを禁止しました。
- 神社の神前に仏具をかざることを禁じました。
2. 神道の強調
- 神道を極度に重視し、神社の祭祀を強化する方針を打ち出しました。
この政策により、神社と寺院の関係が大きく変化し、神社から仏教的な要素が排除される一方で、神社に勤仕していた僧侶が還俗して神職となったり、職業を失ったりする事態が発生しました。江戸時代の大きな寺社では、神職身分の者が高い地位を占め、明治初年の宗教政策は神社の独立や神社からの仏教的要素の除去などをもたらしました。
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バスは「七日町通り」から次の観光地、「大内宿」の駐車場に到着しました。映像がピンボケなのは残念です。
大内宿の駐車場情報を以下にまとめてみました。
「アクセス方法」
- 車で行く場合
- 東京方面から: 東北自動車道の「白河IC」から289号線経由で約50km、約1時間の距離です。
- 仙台方面から: 東北自動車道の「須賀川IC」から118号線経由で約55km、約1時間の距離です。
- 新潟方面から: 磐越自動車道の「新鶴スマートIC」から131号線経由で約32km、約45分の距離です。
- 電車で行く場合: 会津鉄道「湯野上温泉」駅から「乗り合いバス」または「タクシー」を利用できます。
「駐車場情報」
- 有料駐車場
- 第一駐車場、第二駐車場、第三駐車場、臨時駐車場の4か所があります。
- 駐車場係員が誘導してくれるので、指示に従って駐車してください。
- 料金(1回につき):
- 普通車: 500円
- マイクロバス: 1,500円
- 大型バス: 3,000円
- 駐車場は24時間利用可能ですが、駐車場係員がいるのは8:00~17:00です。
- 無料駐車場
- 大内宿からそれほど離れていない場所にあります。
- 「大内宿」まで約5分の距離で、メインのエリアからは少し離れていますが、「見晴台」までは近いです。
- 二輪車駐車場
- 駐車料金は無料で、大内宿まで約500m、約5分の距離です。
「見どころと観光時間目安」
- 「大内宿」は江戸時代の宿場町の風景がそのまま残り、茅葺き屋根の民家が立ち並ぶ姿が魅力です。
- 名物の「ねぎそば」や「岩魚塩焼き」「焼だんご」などの食べ歩きも楽しいです。
- 「見晴台」からの景色は最高なので、写真を撮るのをお忘れなく。
- 観光時間目安:
- 街並みだけを見るだけなら約30分。
- 街並みを見て「見晴台」に上り、「軽食」の食べ歩きを楽しむなら約60分。
- さらに「ねぎそば」を食べるなら約90分です。
大内宿は、福島県下郷町にある宿場町で、江戸時代に下野街道(別名:会津西街道)が開通されたことによって整備されました。
1. 江戸時代の宿場町
- 大内宿は、江戸時代に会津西街道の「半農半宿」の宿場として栄えました。この街は、南北に走る約450メートルの街道を
中心に、44戸の茅葺き屋根の古民家が美しい街並みを作り出しています。
- 街路の両側に流れる小川は、日本の音100選に選ばれており、かつては街路中央に位置していました。荷物の運搬が頻繁に
行われていたため、馬をつなぐための小川が流れていたと考えられています。
- 大内宿は半宿半農であり、農耕馬を使った商売も行われていました。村人と馬との深い繋がりがありました。
2. 歴史的な建造物と風景
- 火見櫓は火災の際に鳴らす鐘のようなもので、宿の中心に位置しています。山村であったため、火災は恐ろしいものでし
た。
- 高倉神社へ向かう鳥居は、逃げてきた高倉宮以仁王が潜伏した伝説が残っています。
- 本陣跡は参勤交代の際に殿様が休息をとった場所で、現在は「街並み展示館」として復元されています。
3. 下野街道と自然散策
- 下野街道は日光街道や会津五街道の一つで、会津若松城下から日光今市を結ぶ街道です。歴史的な道で、豊臣秀吉や伊達政
宗、吉田松陰、イギリスの探検家イザベラバードも歩いたことで知られています。
- 毎年夏には会津下野街道ウォークというイベントがあり、下野街道を約12キロ歩くことができます。
- 大内ダム周辺では春には山桜、秋には紅葉、冬には雪景色を楽しめます。
4. 戊辰戦争と大内宿
- 戊辰戦争で大内宿は戦禍に巻き込まれましたが、なぜ変わらず残り続けたのでしょうか?
- 伝説や保存意識、地理的要因などが影響していると考えられています。
戊辰戦争と大内宿の関係について詳しく説明します。
1. 戊辰戦争と大内宿
- 戊辰戦争は幕末に新政府の西軍と旧幕府軍の東軍との戦いであり、1868年(慶応4年)8月に大内宿にもその戦禍が及びま
した。
- 大内宿は戦場となり、激しい戦いが繰り広げられました。会津軍は敗走し、後からやってくる官軍による焼打ちを避けるた
め、街道沿いの集落を焼き払っていきました。
2. 名主阿部大五郎の尽力
- 大内宿は焼打ちに遭う寸前でしたが、当時の大内村の名主である阿部大五郎が両軍の将に掛け合い、なんとか村を救い戦禍
を免れました。
- 現在の大内宿の景観がそのまま残されているのは、名主阿部大五郎の尽力によるものと言っても過言ではありません。
大内宿の名主である**阿部家**は、代々大内宿の名主を歴任した家柄で、江戸時代末期になると本陣が没落したため、身分の高い人々の宿泊や休憩所として利用されていました。こちらが阿部家住宅(美濃屋)の詳細です。
- 阿部家住宅(美濃屋)
- 阿部家住宅(美濃屋)は、江戸時代末期の慶応年間(1865~1868年)に建てられた古建築物です。
- 木造平屋建てで、寄棟(寄せ棟)構造を持ち、茅葺きの屋根が特徴です。外壁は真壁造りで白漆喰仕上げとなっています。
- 阿部家は大内宿が開宿された際に町割された間口6間4尺(約12メートル)・地坪6畝20歩(約200坪)を引き継いでいたと
考えられています。
- 本陣としての役割も果たしており、高い身分の人々が利用する公式な施設として、座敷には床の間や違い棚、戸袋があり、
天井も高く、矢立の欄間が採用されていました。
- 会津戊辰戦争の際、大内宿周辺が激戦地となりましたが、当時の当主である**阿部大五郎**が交渉に及び、焼き討ちを免れ
たと伝えられています。
- 明治時代に入ると、阿部家は旅館業や運送業、郵便業務、養蚕などを行い、華族も宿泊していました。
- イギリス人女性紀行家である**イザベラバード**も大内宿を訪れ、阿部家住宅(美濃屋)に宿泊したとされています。
- イザベラ・バードと大内宿
- 明治初期には、英国人の女性旅行家であるイザベラ・バードが大内宿を訪れています。彼女は日本奥地紀行を記録した旅行
記『Unbeaten Tracks in Japan』を出版し、東北地方の様子を詳細に伝えています。
- イザベラ・バードは大内宿に泊まり、美濃屋(阿部家)に滞在したとされています。美濃屋は代々大内宿の名主を歴任した
家柄で、彼女の記録は大内宿の歴史を知る上で貴重なものとなっています。
私たちは「大内宿」有料駐車場でバスを降り、「大内宿」を散策し、名物のネギうどんを堪能することにしています。
「三澤屋」は、江戸時代の賑わいが聞こえてくるような趣のある場所で、大内宿の駐車場から歩いて4軒目の右側に位置しています²。この古民家風の建物は、茅葺きの屋根で造られており、特に「高遠そば」が名物です。このそばには丸々1本のネギが入っており、そのネギを箸にして食べるのが特徴となっています。
また、「三澤屋」では、大内宿名物の「ねぎそば(高遠そば)」をはじめ、つきたてのお餅や会津の郷土料理「こづゆ」、山椒漬けなども味わえます。さらに、深井戸から汲み上げた地下水を逆浸透膜方式でRO水に替え、醸造元「花春酒造」にて特別純米酒「雪中百姫 大内宿」を作り上げているそうです。
「三澤屋」の営業時間は、午前9時30分から午後4時までです。年中無休で営業していますが、1月4日から1月7日までの間はお休みとなります。上の写真をクリックすると「三澤屋」の公式ホームページに移動します。
ここで「ネギそば」を食べようとしましたが、並んでいる人の数が半端なく、バスの集合時間に間に合いそうもありません。「三澤屋」の公式ホームページによれば、先日までにネット予約で10%オフとのこと。後の祭りですが、予約すればよかったです。
ですから、バスガイドさんからご紹介いただいた、「こめや」に行くことにしました。
「大内宿」散策ですが、なんか江戸時代にタイムスリップしたような気がします。かやぶき屋根が連なり、その先の紅葉に彩られた山並み、なんかいいですね。心がゆったりと癒されます♪
大内宿の「こめや」は、標高700メートルの裏那須にある、福島県南会津郡下郷町十文字地区の広大なそば畑で穫れた地粉100%を使用して、打ちたて、ゆでたての美味しいそばを提供しているお店です。ここでは、会津のお家に招かれたような気持ちで楽しめる、お蕎麦とお餅を楽しめます²。ねぎそばもおすすめで、醤油味のもちもち食感が堪らないと評判です。
「こめや」の営業時間は、通常期では8:00から18:00までです。ただし、年末年始は特別時間となり、12月31日は8:00から16:00まで、元日は午前0時から20:00まで営業しています。1月2日は7:00から19:00、1月3日は7:00から18:00まで営業していることもあります。状況により、元日から1月3日までの閉店時間が早まる場合もあるので、訪れる際は事前に確認してください。
「こめや」も順番待ちがありました。でも「三澤屋」よりはましでバスの集合時間までには間に合いそうです。まず、店外に掲示されているメニュー看板で品定めです。しかしここは「ネギそば」は外せませんね。
注文した「ネギそば」が来ました。本物のネギが1本、ドーンとどんぶりに乗っています。そばのトッピングはネギと山菜、そしてなめ茸です。本当に美味しかったです。
お腹を「大内宿」名物の「ねぎそば」で満たして大満足です♪ しばらく「大内宿」を散策して腹ごなしをしました。ただ、やはり時間が足りなくて「高倉神社」までは楽しめませんでした。でも十分に楽しめました。「大内宿」のバスの駐車場まで戻り、バスに乗り込みました。
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バスは「大内宿」の駐車場から次の観光地、「雪割橋」に向けて走ります。
車内ではバスガイドから興味深い話がありました。バスは国道121号線、会津西街道、または下野(しもつけ)街道を下ります。途中では会津鉄道の線路、またかやぶき屋根で有名な「湯野上温泉駅」がバス左下に見えるとのこと。バスは「甲子峠」(かしとうげ)を通り、「西郷村」に入り、「白河市」に入ります。その後、「雪割橋」からの眺めを観光するとのこと。また「甲子トンネル」の紹介。また「小野川」という美しい川が見えるとのこと。小野川は「阿賀野川」に流れ込んでいるとのこと。
雪割橋(ゆきわりばし)は、福島県西白河郡西郷村にある道路橋で、阿武隈川の源流部を渡り、西郷村道川谷由井ヶ原線を通しています。
- 全長 : 138.5メートル
- 幅員 : 6.5メートル
- 高さ : 約50メートル(谷底から)
雪割橋は、グランドキャニオンのように深くえぐられた雪割渓谷をまたぐ橋で、紅葉の名所としても知られています。また、西郷村市街地と由井ヶ原地区を結ぶ唯一の通行経路であり、陸上自衛隊白河布引山演習場の付近住民の緊急避難や消防活動にも重要です。2021年に新橋梁として架設され、5代目の雪割橋となりました。この橋は、美しい自然と風景を楽しみながら、会津地方を旅するのに最適な場所です。
国道121号は、山形県米沢市から福島県会津若松市、そして栃木県日光市を経由して、芳賀郡益子町に至る一般国道です。
- 総延長 : 280.6 km
- 実延長 : 254.3 km
- 現道 : 219.0 km
- 制定年 : 1953年(昭和28年)
- 起点 : 山形県米沢市
- 終点 : 栃木県芳賀郡益子町(七井中央交差点)
国道121号は、山形県の置賜地方から福島県の会津地方を南北に縦貫し、関東平野へと南下します。豪雪地帯で知られる飯豊連峰・大峠をいくつものトンネルで越えています。また、福島県から栃木県境にかけては、国道121号と国道352号、国道400号の3重複区間となっています。日光市内では、国の特別史跡である日光杉並木が有名です。
この道路は、地域経済の発展や観光産業を支える重要な社会基盤であり、災害時には市民の命を守るライフラインとしても役立っています。大峠道路は、かつて交通難所とされていた場所で、大峠トンネルの開通により、交通の便が向上しました。
1. 龍王峡(鬼怒川): 鬼怒川の渓谷を眺めながら、国道121号を龍王峡へ向かうことができます。鬼怒川ライン下りや龍王峡自
然研究路で渓谷美を楽しむことができます。
2. 日塩もみじライン(栃木県): 龍王峡から日塩もみじラインを通って塩原を目指しましょう。この観光道路は、秋には山々
を美しい紅葉で彩ります。
3. 塩原温泉 : 塩原温泉には素朴な共同湯や野趣あふれる露天風呂、足湯などがあり、ドライブの疲れを癒すことができます。
4. もみじ谷大吊橋(塩原): 塩原ダム湖に架かる大吊橋で、全長320メートルあります。紅葉の名所でもあり、秋には素晴らし
い景観が広がります。
5. 那須千本松牧場(那須塩原): 自然に囲まれた牧場で乗馬やサイクリング、熱気球などのアクティビティが楽しめます。ま
た、新鮮な生乳を使った自家製ソフトクリームもおすすめです。
会津西街道(下野街道)は、江戸時代に会津藩主の保科正之によって整備された街道で、会津若松と日光を結ぶ一般国道です。
- 経路 : 福島県会津若松市から栃木県日光市今市(旧今市市)までの全長約130キロメートル
- 歴史 : 会津藩の参勤交代の行列が行き来した道で、現在は国道121号(一部、国道118号などが重複)がその道筋をなぞって
います。
- 重要性 : 交通路線としてだけでなく、廻米の輸送路や日光への観光客の道としても重要でした。
この街道は、美しい景観や観光スポットが点在しています。以下にいくつかおすすめのスポットをご紹介します。
1. 渡邊佐平商店(日光市今市): 純米酒と吟醸酒の違いなどを丁寧に教えてくれる酒造巡りのスポットです。
2. 如来寺(日光市今市): 桜が美しい浄土宗寺院で、本堂や観音堂が立派です。
3. 東武鉄道下今市駅 : 東武日光方面と鬼怒川、南会津方面、浅草への分岐地点で、SL乗車ホームで駅弁を楽しむこともでき
ます。
4. 日光市歴史民俗資料館 : 二宮尊徳に関する資料や日光市の歴史について学べる施設です。
5. 日本のこころのうたミュージアム・船村徹記念館**: 作曲家船村徹氏の作品をテーマにしたミュージアムで、迫力の3Dシ
アターが見どころです。
6. 大内宿 : 会津西街道の古道が保存されている場所で、茅葺屋根の民家が建ち並ぶ町並みが残されています。
7. 報徳文庫 : 二宮尊徳関連の資料や日光市の歴史について展示されている施設です。
8. 道の駅日光「日光街道ニコニコ本陣」: 船村徹の作品をテーマにしたミュージアムがあります。
また、会津西街道は、会津の若松城下から下野の今市に至る一般国道です。この街道は、関東側からは「会津西街道」、会津側からは「下野街道」や「南山通り」とも呼ばれました。
- 経路: 福島県会津若松市から栃木県日光市今市(旧今市市)までの全長約130キロメートルに及び、現在の福島県道131号下郷
会津本郷線、国道121号に沿っています。
- 歴史的重要性 : 会津藩、新発田藩、村上藩、庄内藩、米沢藩などの参勤交代や江戸と会津以北を結ぶ物流の道として重要で
した。
- 史跡指定 : 街道筋にある大内宿は重要伝統的建造物群保存地区として選定されており、石畳などの旧街道の跡も残されてい
ます。また、下野町域の旧街道は国の史跡に指定されています。