ゴールデン・ラインのドライブ

トレッキングと健康の関係について

 トレッキングと健康の関係について。

「登山と健康の関係」

 登山は、心肺機能を改善する、脂肪を減らす、筋と骨を強くするなどの効果があります¹。その理由は、ある程度強度の高い運動を長時間かけて行うからです。つまり、登山というスポーツは、思った以上に身体への負担が大きい運動だと言えます。

 しかし、体力に不相応な歩き方をしてしまえば、疲労や故障を招いて、それが事故に繋がるケースもあります。実際に、体力不足が原因で起こる事故は年々増え続けています。そのため、トラブルを防ぎ、健康的に登山を続けるためには、まずは自分に合った歩行ペースを知ることが重要です。

「 歩行ペースの重要性」

 自分に合った歩行ペースを知ることで、トラブルを防ぎ、健康的に登山を楽しむことができます。以下は、歩行ペースを知るためのポイントです。

 1.  心拍数と主観的な感覚を組み合わせる : 心拍数などの客観的なデータを使ったペースコントロールが重要です。自分の適正

 心拍数を知ることで、安全に登山ができます。一般的には、自分の最高心拍数 (220 - 年齢) の75%くらいを保てば、疲労せず

 に歩けると言われています。ただし、個人差があるため、主観的な感覚と組み合わせて判断することが大切です。

 2.  登山は高強度の運動: 登山は、荷物を背負った状態で坂道の上り下りを繰り返し、長時間続ける運動です。運動強度はメッ

 ツという単位で表され、登山は高強度の運動になります。自分の体力に合ったペースを保つことが重要です。

 3.  適正なペースを保つ : 登山中は、心拍数や登高速度などを意識して確認しましょう。自分の体力に見合った歩行ペースを 

 ことで、安全に登山を楽しむことができます。


GOTO旅行支援で行く、8つの紅葉ハーモニー! 宮城蔵王・裏磐梯、五色温泉、 みちのく錦秋の絶景紀行の3日間、新幹線と大型バスで行く東北紅葉観光の映像(94)

 GOTO旅行支援で行く、8つの紅葉ハーモニー! 宮城蔵王・裏磐梯、五色温泉、みちのく錦秋の絶景紀行の3日間、新幹線と大型バスで行く東北紅葉観光の映像(94)です。

 バスは桧原湖から紅葉の磐梯山ゴールデンラインを抜けて、若松市内に向けて走ります。

 車中ではバスガイドから興味深いアナウンスがありました。ゴールデン・ラインから見える湖の話し。バスから滑滝が見えました。その滑滝の話しがありました。その後、バスから猪苗代湖が見え、猪苗代湖の話しがありました。猪苗代湖には遊覧船が2艘あるそうで、その船名は「はくちょう丸」と「かめ丸」と呼ばれているとのこと。この遊覧船はコロナ禍は冬眠状態でしたが、クラウドファンディングで生まれ変わり、かめ丸は船上レストランになりました。次の機会には船上レストランで食事をとりながらの船上からの猪苗代湖の眺めを楽しんでほしいとのこと。今のはくちょう丸は二代目で、初代は落雷で焼失とのこと。今のはくちょう丸は避雷針がついているので安全とのこと。長野の諏訪湖にも白鳥型の遊覧船があるそうとのこと。今の季節の猪苗代湖には本物のはくちょうも飛来しているとのこと。

ゴールデン・ラインから見える景色について

 磐梯山ゴールドラインは、磐梯山と猪苗代湖、桧原湖などを眺めることができる観光道路です。展望台が途中にあり、山湖台、滑滝展望台、とび滝展望台、まぼろしの滝、八方台(磐梯山ゴールドライン最高地点)などで景色を楽しめます。

猪苗代湖について

 猪苗代湖(いなわしろこ)は、日本の福島県会津若松市、郡山市、耶麻郡猪苗代町にまたがる断層湖で、日本国内で4番目に広い湖です³. 以下は猪苗代湖についての詳細です。

 -  特徴

     -  猪苗代湖は、透明度12~の澄んだきれいな水を持つ湖で、面積は約103平方キロメートル、最大深度は約93.5メートルで

  す。

     -  湖に注ぐ長瀬川が火山性の酸性水であるため、水質は弱酸性の貧栄養湖となっており、水中の植物や藻があまり繁茂して

  いないことが特徴です。

     -  国指定天然記念物のミズスギゴケ群落や白鳥の飛来地として貴重な生態系を保有しています。

 -  観光スポット

     -  猪苗代湖は日本百景に選定されており、キャンプなど、年間を通して親戚や家族連れなどの観光客が多く訪れます。

 猪苗代湖は四季折々の美しい景色が魅力であり、磐梯山の姿を映すことから「天鏡湖」とも呼ばれています。湖畔には湖水浴場やキャンプ場もありますので、訪れる際には楽しい時間を過ごせることでしょう。

 -  成因

     -  猪苗代湖は、第四紀以降の地殻変動によって形成されました。

     -  東側の川桁断層により盆地の形成が始まり、新第三紀中も西側の会津盆地東縁断層などを含む東西の断層によって、現在

  の猪苗代湖に続く盆地の形成がなされました。

     - 磐梯山の火山活動による火砕流や泥流で河川が堰き止められ、約4万年から5万年前に現在の形になったと推定されていま

  す。

 -  地理

     -  猪苗代湖は福島県のほぼ中央に位置しており、面積は琵琶湖、霞ケ浦、サロマ湖に次いで日本第4位で、湖面の標高514メ

  ートルは全国でも有数の高い湖です。

     - 猪苗代湖は磐梯朝日国立公園に属しています。

 -  水質

     -  湖水の水質はかつて強い酸性を示していましたが、近年は中性に近くなっています。

     -  酸性は長瀬川を通じて流入する酸川の水が原因でしたが、水質改善の取り組みにより中性化が進んでいます。

断層湖について

 断層湖(または地溝湖)は、大陸地殻の延長線上にあるリフト帯(地溝帯)内の断層の動きに伴う沈下によって形成された湖です。以下に断層湖について詳しく説明します。

 -  特徴

     -  断層湖は、断層によってできた凹地に水がたまってできた湖です。

     -  その成因により、しばしば地面が陥没して形成されます。

     -  断層湖は、日本の諏訪湖やロシアのバイカル湖などがあります。

 断層湖は、地球上の湖の中で「古代湖」と呼ばれる湖の一部であり、その成因の地殻変動が長期間にわたって継続しているため、流入河川などから流入する土砂などの堆積によって埋まらずに、長期間にわたって存在してきた湖が目立ちます。例えば、琵琶湖は次第に埋まって浅くなってきた場所も見られる一方で、断層の活動によって、ある程度の水深を保っている場所も存在します。


ゴールデン・ライン付近の滑滝

GOTO旅行支援で行く、8つの紅葉ハーモニー! 宮城蔵王・裏磐梯、五色温泉、みちのく錦秋の絶景紀行の3日間、新幹線と大型バスで行く東北紅葉観光。
滑滝付近の景色

 なめ滝は、福島県磐梯町にある美しい滝です。磐梯山ゴールドラインの途中から見ることができ、岩肌を滑るような可憐な流れを持っています。この滝は落差18メートルで、山道を歩いていくと視界が開けた先に現れます。特に春の山桜や秋の紅葉の時期には美しい風景が広がります。滝の近くまで行くことはできませんが、滝の下のせせらぎや周囲の景色を楽しむことができます。

猪苗代湖の2艘の遊覧船について

猪苗代湖は、福島県にある美しい湖で、その周辺は自然の景観が豊かです。猪苗代湖を周遊するための観光遊覧船として、以下の2つの船が運航されています。

1.  はくちょう丸(Swan Maru): 白鳥の形をした遊覧船で、船上から磐梯山を望むことができます。季節ごとに美しい自然を

 楽しめる船です。

2.  かめ丸 (Kame Maru): 亀の形をした遊覧船で、猪苗代湖の風景を楽しみながら湖上散歩を体験できます。

 これらの遊覧船は、気持ちの良い空気の中で船内アナウンスを聞きながら、大自然を映し出す湖上散歩を楽しむことができます。周辺にはテントサウナやグランピング、バーベキューなどのアクティビティもあり、ゆっくり過ごすことができます。

猪苗代湖の遊覧船「かめ丸」の船上レストランについて

 福島県猪苗代町の猪苗代湖で運航されている「かめ丸」は、遊覧船としてだけでなく、船上レストランとしても楽しめる船です。この船は大幅にリニューアルされ、バーカウンターやキッチンが設置されています。2階建ての船内は広々としており、眺望も抜群です。² また、「かめ丸」はモーニング・ランチ・ディナークルーズなど、さまざまなサービスも提供しています。

「かめ丸」の船上レストランでは、以下の一般的なメニューの一部です。

1.  モーニングクルーズ

     -  朝食メニューが提供されています。軽食やドリンクを楽しむことができます。

     - 朝食メニューを楽しむモーニングクルーズは、おそらく1,000円から3,000円程度の価格帯で提供されていることが多いで

 す。

2.  ランチクルーズ

     -  ランチメニューはバラエティ豊かで、地元の食材を使用した料理が楽しめます。例えば、地魚の刺身、郷土料理、サラダ、

 デザートなどがあります。

     -  ランチメニューを楽しむランチクルーズは、2,000円から5,000円程度の価格帯で提供されていることがあります。

3.  ディナークルーズ

     -  夕食メニューは特に豪華で、ロマンチックな雰囲気の中で食事を楽しむことができます。シーフード、ステーキ、ワインな

 どが提供されています。

     -  夕食メニューを楽しむディナークルーズは、5,000円から10,000円以上の価格帯で提供されていることが一般的です。

4.  ドリンクメニュー

     -  バーカウンターでは、アルコールやソフトドリンクを楽しむことができます。

-  サンセットCaféクルーズ

    -  2022年10月に行われた「かめ丸」のサンセットCaféモニタークルーズでは、参加者から好評を得ているようです。スイーツ

 プレートや本格的なコーヒー、紅茶などが提供され、湖上で夕景を楽しむ至福のひとときとなったようです。

-  サンセットBarクルーズ

    -  2022年11月に行われた「かめ丸」のサンセットBarモニタークルーズも好評でした。ワインやウィスキー、スペシャルカクテ

 ルが提供され、おしゃれなワンプレートおつまみと一緒に楽しめると評判です。

猪苗代湖の遊覧船「はくちょう丸」の初代引退について

 猪苗代湖の遊覧船「はくちょう丸」の初代は一時的に引退していましたが、その後復活しました。長年多くの人に愛されていた「はくちょう丸」は、2020年に以前の運行会社が廃業となり、無くなるかと思われていました。しかし、2021年に地元有志で設立された新会社、「猪苗代観光船」が「はくちょう丸」を引き継ぎ、復活させました。同じく長浜で旅館を営む「みなとや」のご主人が新たな会社を設立し、クラウドファンディングを経て「はくちょう丸」は相棒の「かめ丸」と共に再び運航されています。

長野県諏訪湖の遊覧船について

 長野県の諏訪湖では、美しい景色を楽しむための遊覧船が運航されています。以下に詳細をご案内します。

1.  スワン(すわん)

    -  白鳥をイメージしたスタイリッシュな船体を持つ遊覧船です。

    -  2階部分は展望台となっており、素晴らしい景色を楽しむことができます。

    -  毎日決まった時刻に運行されており、諏訪湖を一周するルートで約25分の周遊が楽しめます。

    -  2024年度のわかさぎ釣りは10月1日から再開される予定です。

2.  竜宮丸

    -  カメの形をしたユニークな遊覧船です。

    -  こちらも2階建てで、展望台からの眺めは抜群です。

    -  団体での利用も可能で、規定の時間以外にも遊覧を楽しめる場合があります。

猪苗代湖に冬、飛来する白鳥について

 猪苗代湖(いなわしろこ)は、福島県にある美しい湖で、冬には渡り鳥の白鳥が訪れます。ここでは、白鳥について詳しく説明します。

 -  白鳥の飛来時期 : 猪苗代湖の白鳥は、12月頃から姿を見せ始め、3月頃から北の空に飛び立って行きます。一番多く見られる

 のは2月で、毎年約3,000羽ほどが冬を越します。

 -  白鳥の種類 : 猪苗代湖に飛来する白鳥は、主にコハクチョウが多いですが、まれにオオハクチョウも見ることができます。

 -  指定された天然記念物 : 猪苗代湖と猪苗代湖に飛来する白鳥は、「猪苗代湖のハクチョウおよびその渡来地」として1972年

 に天然記念物に指定されています。

 猪苗代湖の白鳥は、氷の芸術「しぶき氷」とともに、冬の風物詩として観光客を魅了しています。

 白鳥の生態について詳しく説明します。

 -  ハクチョウの種類 : ハクチョウは、カモ科の7種の水鳥の総称です。主にシベリアやオホーツク海沿岸で繁殖し、冬季には温 

 暖な日本などへの渡りを行い、越冬する大型の渡り鳥です。現生の空を飛ぶ鳥の中では最大級の重量を持っています。

 -  生態と食事 : ハクチョウはつがいや家族の群れで行動します。内湾ではアマモ、湖ではアシやガマなどの水生植物の茎や根

 を主なエサとしています。繁殖地では水辺の地上や浅瀬の枯れ草などで大きな巣を作り、5~6個の卵を産みます。

 -  越冬地 : 日本にはオオハクチョウとコハクチョウが越冬のために渡ってきます。オオハクチョウは本州北部や北海道に多く

 やってきます。コハクチョウはオオハクチョウより南にも見られます。晩秋から初冬に渡来し、春には飛去します。青森県、

 島根県、東京都千代田区、新潟県新潟市、阿賀野市などで観察されています。

猪苗代湖の「しぶき氷」について

 猪苗代湖の「しぶき氷」について詳しく説明します。

 ‐  しぶき氷とは : 猪苗代湖のしぶき氷は、厳冬期(1月から2月)に見ることができる現象です。湖水が強い西風にあおられ

 て、岸辺の樹木に氷着したもので、国内でも極めて珍しいものとされています²³⁴。樹氷に勝る美しさを持ち、観光客やアマチ

 ュアカメラマンにとって絶好のスポットとなっています。

 -  見頃とスポット : しぶき氷の見頃は1月上旬から2月中旬頃です。特に有名なスポットは「天神浜」と呼ばれる場所で、猪苗

 代湖の南側の林を抜け、長瀬川の河口に向かうと見ることができます。駐車場も整備されているため、アクセスが良いです。


GOTO旅行支援で行く、8つの紅葉ハーモニー! 宮城蔵王・裏磐梯、五色温泉、 みちのく錦秋の絶景紀行の3日間、新幹線と大型バスで行く東北紅葉観光の映像(95)

 GOTO旅行支援で行く、8つの紅葉ハーモニー! 宮城蔵王・裏磐梯、五色温泉、みちのく錦秋の絶景紀行の3日間、新幹線と大型バスで行く東北紅葉観光の映像(95)です。

 バスは桧原湖から紅葉の磐梯山ゴールデンラインを抜けて、若松市内に向けて猪苗代湖畔を走ります。

 車中ではバスガイドから興味深いアナウンスがありました。ゴールデン・ライン沿いには星野リゾートのゴルフ場があるとのこと。走るバスからはスキー場のリフトが見えました。バスは裏磐梯から表磐梯に入るととのことと。また、今の千円札の顔、野口英世の生家が猪苗代湖畔にあるとのこと。また野口英世記念館も猪苗代湖畔にあるとのこと。この記念館は福島県内での博物館第一号とのこと。この博物館の名称は感染症ミュージアムに変わったとのこと。また2年後には新千円札の顔は北里柴三郎に、新五千円札は津田梅子に、新一万円札は渋沢栄一に代わることなど。星野リゾート・メローウッド・ゴルフクラブが見えました。ここには磐梯温泉ホテルがあるとのこと。会津の良さは酒の良さと言われているとのこと。新酒品評会で9年連続、福島県の銘柄が評価されているとのこと。17種以上の酒が金賞受賞とのこと。福島の米と水がうまいことが理由とのこと。これからバスは一軒の酒蔵の前を通るとのこと。福島県には酒蔵が多いとのこと。その中でも会津が一番多いと思うとのこと。またその次には北方が多いとのこと。喜多方の酒蔵の娘さんがテレビのアナウンサーをしていて、日曜日の関口さんの番組のスポーツ・コーナー担当とのこと。眼鏡をかけた美人アナウンサーで有名な唐橋ゆみさんとのこと。その酒蔵は誉れ酒造とのこと。今酒蔵は化粧水や乳液も作っているとのこと。

星野リゾート・アルツ磐梯について

 磐梯山ゴールデン・ラインにある星野リゾート アルツ磐梯について。

 星野リゾート アルツ磐梯は、福島県耶麻郡磐梯町に位置するスキー場です。磐梯山周辺にあるスキー場の一つであり、広大なゲレンデを有しています。具体的には、121ヘクタールの広さを誇り、福島県内で最多の29本のコースがあります。磐梯山の麓にあるため、自然豊かな環境でスキーを楽しむことができます。

 また、星野リゾート アルツ磐梯には磐梯山温泉ホテルも併設されており、スキー場に直結しています。磐梯山や猪苗代湖を望む美しいロケーションで、温泉やビュッフェレストラン、スパ、温水プールなどの施設を楽しむことができます。

 星野リゾート アルツ磐梯のレストランでは、美味しい料理を楽しむことができますよ!以下は、レストランで提供されている一部の料理の例です。

 1.  ビュッフェレストラン

     -  朝食、ランチ、ディナーのビュッフェスタイルで、和洋中の多彩な料理が並びます。季節の食材を活かしたメニューが豊

  富です。

 2.  カフェ・ラウンジ

     -  軽食やスイーツ、ドリンクを楽しむことができます。リラックスした雰囲気でくつろげる場所です。

 3.  バー

     -  アルコール類やカクテル、ノンアルコールドリンクが提供されています。夜にはくつろぎながら飲み物を楽しめます。

 4.  和食レストラン

     -  伝統的な日本料理を味わえる場所です。新鮮な寿司、刺身、天ぷらなどが人気です。

 5.  洋食レストラン

     -  洋風の料理を提供しており、ステーキやパスタ、シーフードなどが楽しめます。

 星野リゾート アルツ磐梯のレストランでおすすめの料理をいくつかご紹介します。

 1.  馬刺し専門 大久保商店(猪苗代町)

     -  国産馬肉にこだわった馬刺しランチが絶品です。お土産用の馬刺しも購入できます。

 2.  タロカフェ(猪苗代町)

     -  美しい猪苗代湖を望むカフェで、スイーツとコーヒーが美味しいです。

 3. ホテリ・アアルト(北塩原村)

     -  イタリアンとオーベルジュの料理旅館で、優雅な時間を過ごせます。絶景と朝風呂もおすすめです。

 4.  くいものや ラ・ネージュ(猪苗代町)

     -  そばとかつ丼が美味しい喫茶店です。

星野リゾートのスキー場について

 星野リゾート アルツ磐梯のスキー場には合計で8本のリフトがあります。以下はリフトの内訳です。

 1.  アルツゴンドラ・アダム : 定員8名、路線長2,390m

 2.  第1高速ペアリフト : 定員2名、廃止

 3.  旧第2ペアリフト (バトウチェア) : 定員2名、路線長740m

 4.  旧第3クワッドリフト : 定員4名、廃止(現在は星野リゾート トマムスキー場で運行)

 5.  旧第4クワッドリフト (アルツエクスプレス) : 定員4名、路線長1,910m(フード付き)

 6.  旧第5ペアリフト (ファーストチェア) : 定員2名、路線長700m

 7.  旧第6ペアリフト (ホワイトバレーチェア) : 定員2名、路線長760m

 8.  旧第7クワッドリフト (ブラックバレーエクスプレス) : 定員4名、路線長780m

新紙幣について

 2024年7月3日に、日本の紙幣が一新される予定です。これは2004年以来20年ぶりの出来事で、1万円札、5千円札、千円札のデザインが一新されます。それでは、新しいお札の詳細をご紹介しましょう。

 -  新1万円札

     -  表面には「資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一氏の肖像が描かれています。彼は日本で最初の銀行である第一国立銀行(現在のみずほ銀行)や東京ガス、キリンビールなどを設立した起業家であり、日本近代社会の創造者とされています。

     -  裏面には歴史的建造物「東京駅」の「赤レンガ駅舎」が描かれています。

 -  新五千円札

     -  表面 には女性の地位向上と女子教育に尽力した津田梅子氏の肖像が描かれています。彼女は岩倉使節団に随行した最初の

  女子留学生であり、女子英学塾(現在の津田塾大学)を設立した教育家です。

     -  裏面には藤の花が描かれており、花言葉は「優しさ・歓迎」を意味します。

 -  新千円札

     -  表面には世界で初めて破傷風菌の培養に成功し、療法を開発した医学者である**北里柴三郎**氏の肖像が描かれていま

  す。彼は近代日本医学の父と称されています。

     -  裏面には葛飾北斎の富嶽三十六景「神奈川沖浪裏」が描かれています。

 新しいお札は、伝統的な日本のイメージを意識しながら、視認性の高さを向上させた作りになっています。外国人から見ても「いくらなのか」が分かりやすくなるように、アラビア数字で大きく書かれた数字が特徴です。

 日本の紙幣は偽造防止のためにさまざまなセキュリティ対策が施されています。以下に、日本銀行券の主な偽造防止技術をご紹介します。

 1.  すかし : 紙幣の表面に微細な模様が施されており、角度を変えると色や模様が変化します。

 2.  超細密画線 : 紙幣に微細な線模様が描かれており、転写による偽造を防ぎます。

 3.  凹版印刷 : インキが表面に盛り上がるように印刷されており、触感で識別できる特徴です。

 4.  ホログラム : 角度を変えるとホログラムが浮かび上がり、偽造を難しくします。

 5.  すき入れバーパターン : 光に透かすと縦棒が見え、再現が難しいです。

 6.  潜像模様 : お札を傾けると特定の文字が浮かび上がります。

 7.  パールインキ : 傾けると半透明な模様が浮かび上がります。

 8.  マイクロ文字 : 小さな文字が印刷されており、再現が難しいです。

 9.  特殊発光インキ : 紫外線をあてると発光する部分があります。

 10.  深凹版印刷 : インキが盛り上がる凹版印刷が採用されています。

 日本の紙幣は高い偽造防止能力を持っています。また、偽造に関する法律も厳格に適用されており、偽造行為は罰せられます。

 日本の硬貨にも偽造防止技術が施されています。以下に、日本の硬貨で採用されている主な偽造防止技術を紹介します。

 1.  斜めギザ : 貨幣の側面のギザを斜めに入れることで偽造抵抗力を高めています。この技術は、大量生産型の貨幣で世界初の

 異形斜めギザを施したものです。

 2.  微細点 : 転写などによる偽造を防ぐため、貨幣模様の中央部(桐部)に微細な穴加工を行っています。これは最先端技術を

 使用したもので、偽造を防ぐ効果が非常に高いです。

 3.  微細線 : 上下文字部「日本国」「五百円」の周りに扇状に微細な線模様を施しています。微細線は髪の毛よりも細く、金属

 彫刻における最先端技術を使用したもので、偽造を防ぐ効果が高いです。

野口英世について

 野口英世(のぐちひでよ)は、日本の医師であり細菌学者です。彼の業績と人生について詳しく説明します。

 -  生い立ちと学歴

     -  1876年11月9日に福島県耶麻郡三ッ和村(現在の耶麻郡猪苗代町)で生まれました。

     -  高等小学校を卒業後、済生学舎(日本医科大学の前身)に通い、医師免許を取得しました。

     -  ペンシルベニア大学医学部で助手を務めた後、ロックフェラー医学研究所の研究員となりました。

 -  業績

     -  主に細菌学の研究に従事し、黄熱病や梅毒の研究で知られています。

     -  数々の論文を発表し、ノーベル生理学・医学賞の授賞候補にも名前が挙がりましたが、後にその業績の多くが否定されま

  した。

 -  黄熱病との関連

     -  黄熱病の研究中に自身も罹患し、1928年に英領ゴールド・コースト(現在のガーナ共和国アクラ)で51歳で亡くなりまし

  た。

     -  彼の研究は後世にも影響を与えました。

野口英世記念感染症ミュージアムについて

 福島県猪苗代町にある野口英世記念感染症ミュージアムは、感染症に特化した博物館で、感染症の基礎知識や歴史、新型コロナウイルス感染症などについて写真やパネルで紹介しています。このミュージアムは、感染症に対する正しい知識を広め、未来への対策を考える場として設立されました。

 ミュージアムの展示内容は以下のようになっています。

 1.  感染症の基礎知識と歴史

     -  寄生虫、原虫、細菌、ウイルスの大きさや姿、感染症発症のメカニズム、治療薬の開発など、感染症を理解する基礎的な

  知識を伝えています。

     -  近代医学の夜明けから現代までの感染症に関する展示もあります。

 2.  感染症と人間の闘い

     -  メッセージシアターでは「感染症の歴史といま」を紹介しており、感染症に対する人類の闘いを伝えています。

     -  ワクチンの重要性や感染症終息の切り札としての役割も展示されています。

入館のご案内

 -  開館日 : 年中無休(ただし12月1日から3月15日まで休館)

 -  開館時間

     -  4月~10月: 9:00~17:30

     -  11月~3月: 9:00~16:30

 -  入館締切は閉館時間の30分前です。

津田梅子について

 津田梅子(つだ うめこ)は、日本の女子教育家であり、日本における近代女子教育の先駆者として評価されています。彼女の業績と人生について詳しく説明します。

 -  生い立ちとアメリカ留学

     -  津田梅子は1864年12月31日に江戸(現在の東京都新宿区南町)で生まれました。

     -  1871年に日本政府の官費でアメリカに留学し、日本初の女子留学生の一人となりました。

     -  アメリカでは英語を学び、女性の地位向上と教育改革に尽力しました。

 -  女子英学塾(現在の津田塾大学)の創設

     -  帰国後、彼女は女子英学塾を設立し、女性の高等教育を推進しました。

     -  津田塾大学は彼女の夢を実現する場となり、日本の女性に教育の機会を提供しました。

 -  著名な実績

     -  津田梅子は欧米の学術雑誌に論文を発表し、日本人女性として初めてその名前を世界に知らしめました。

     -  彼女は女性の権利と教育の重要性を訴え、日本社会に大きな影響を与えました。

 津田梅子は、日本の女性教育の改革を推進し、日本の女性の地位向上に尽力した偉人です。彼女の功績は、新紙幣の図柄にも選ばれています。でも詳細な情報が提供されていますので、興味があればぜひご覧ください。

 津田梅子(つだうめこ)は、日本の女子教育の先駆者であり、自由で自立した女性の育成を目指して活躍しました。彼女の教育理念は、真剣さ、情熱、堅忍強さ、礼儀正しさなどに基づいています。以下は津田梅子の教育理念についての詳細です。

 1.  教師の資格と熱心

     -  津田梅子は、教育には物理的な環境以上に、教師の熱意と学生の意欲が大切だと考えていました。

     -  教育者は学生に対して真剣に向き合い、知識を伝えるだけでなく、学生の成長をサポートする役割を果たすべきだと信じ

  ていました。

 2.  学生の個性に応じた指導

     -  津田梅子は少人数教育を重視しました。学生の個性に合わせて指導することで、最良の教育を提供できると考えていまし

  た。

     -  一人ひとりの学生に目を配り、適切なサポートを行うことで、自立した女性を育てることを目指しました。

 3.  all-roundな女性

     -  津田梅子は「all-round women(あらうんどな女性)」を目指すことを重視していました。

     -  学問だけでなく、礼儀や社会的なスキル、国際的な視野を持つ女性として育成することを理念としていました。

 津田梅子の教育理念は、彼女の創設した津田塾大学でも受け継がれており、先進的な女性の育成を通じて社会的な使命を果たしています。

渋沢栄一について

 渋沢栄一(しぶさわ えいいち)は、日本の実業家であり、日本資本主義の父と称される人物です。彼の生涯と功績は非常に興味深いもので、以下に詳しく説明します。

 -  生い立ちと経歴

     -  渋沢栄一は1840年3月16日に生まれました。彼は農民の家庭で育ち、幕末の動乱期に活躍しました。

     -  幕臣として、彼は一橋慶喜の家臣となり、外国奉行支配調役としてフランスに渡航しました。パリ万国博覧会を視察した

  り、近代的な産業や諸制度を学んだりしました。

     -  明治政府では官僚としても活躍し、紙幣の制度改革や政策立案に携わりました。

 -  実業家としての活動

     -  退官後、渋沢栄一は実業界に転じ、約500社もの企業を設立・経営しました。彼は日本経済の在り方を論じ、資本主義の

  発展に大きく貢献しました。

     -  また、福祉事業や教育支援、研究事業など多岐にわたる社会貢献も行いました。

 -  思想と遺産

     -  渋沢栄一は「論語と算盤」という言葉で知られており、道徳と経済を結びつける思想を広めました。

     -  彼の遺産は多岐にわたり、日本の近代化と社会発展に大きな影響を与えました。

 日本資本主義は、日本における経済体制の一形態を指します。以下に詳しく説明します。

 -  定義

     -  資本主義は、産業革命によって確立された経済体制です。この体制では、資本家が生産手段を私有し、労働者から労働力

  を購入して商品を生産し、それを上回る価値を持つ商品を作り出して利潤を得る仕組みがあります。

     -  つまり、資本主義は自由な経済活動を行える体制であり、市場原理に基づいてモノの価値が決まります。

 -  日本の資本主義の発展

     -  日本の資本主義は、19世紀末に成立しました。明治政府は欧米列強の圧力のもとで「文明開化、殖産興業、富国強兵」の

  スローガンに転じ、資本主義的近代化・工業化の政策を進めました。

     -  しかし、日本の資本主義は、政府主導によるものであり、商品経済と資本の自律的発展が長期間をかけて制度の近代化を

  促す先進国(イギリス)型ではなく、「上からの資本主義」といわれる後発国(ドイツ)型の特質を持って成立しました。

 -  現在の日本資本主義

     -  現在、日本は資本主義の枠組みの中で経済活動を行っています。資本家と労働者の階級が存在し、市場原理に基づいて商

  品の価値が決まります。

     -  日本は高度経済成長を経て「経済大国」となり、世界経済に大きな影響を与えています。

 日本とアメリカの資本主義は、いくつか異なる点があります。以下にそれらの違いを説明します。

 1.  自己資本比率と自己資本の大きさ

     -  日本 : 日本は「創業以来の歴史を誇り、自己資本比率の高さと自己資本の大きさを信用の拠り所」としています。例えば、

  時価総額日本一のトヨタの自己資本は24兆円です。

     -  アメリカ : アメリカの企業は、自己資本比率を小さくし、純益÷自己資本(EPS)を向上させることを重視しています。ア

  ップルなどの世界的企業も、自己資本は7兆円程度と比較的小さいです。

 2.  経済活動の方向づけ

     -  日本 : 日本的な経営は、長期的な視点での経済活動を重視し、自己株式の買い取りや高配当を通じて自己資本を活用してい

  ます。

     -  アメリカ : アメリカの株主資本主義は、市場原理に基づいて自由な経済活動を重視します。企業は株主の利益を最大化する

  ことを目指します。

 3.  政府介入

     -  日本 : 日本は戦後、政府主導で産業発展を進めました。政府と民間企業が連携して経済成長を実現しました。

     -  アメリカ : アメリカの資本主義は、政府の介入を最小限に抑え、市場原理に基づいて競争を促進します。

北里柴三郎について

 北里柴三郎は、近代日本医学の父として知られる微生物学者であり、教育者でした。以下は彼の生涯と業績の一部です。

 -  生涯

     -  生誕 : 1853年1月29日、日本の肥後国阿蘇郡小国郷北里村(現在の熊本県小国町)で生まれました。

     -  死没 : 1931年6月13日、東京府東京市麻布区(現在の東京都港区)で亡くなりました。

 -  業績

     -  1889年には世界で初めて**破傷風菌の純粋培養**に成功しました。

     -  翌1890年には**血清療法**を開発し、世界の医学界を驚嘆させました。

     -  さらに、1894年には**ペスト菌**を発見し、「感染症学の巨星」と呼ばれました。

 彼は貴族院議員を務め、位階勲等は従二位・勲一等・男爵でした¹。また、医学博士であり、第1回ノーベル生理学・医学賞の最終候補者の一人でもありました。

 北里柴三郎の業績は、日本の医学の発展に大きく貢献し、彼の名前は1000円札にも刻まれています。

星野リゾート・ゴルフクラブについて

 星野リゾート・メローウッド・ゴルフクラブについて。

 このゴルフクラブは福島県耶麻郡磐梯町に位置しており、光と水と緑の調和をテーマにしたホールレイアウトと、標高700mに位置する適度な起伏がある丘陵コースを提供しています。

 こちらのゴルフ場は自然の地形を最大限に生かすというコース作りのコンセプトを持ち、18ホールはそれを見事に表現しているそうです。磐梯山や猪苗代湖を望む広大な美しい自然の中で、リーズナブルで気軽に本格的なゴルフを楽しむことができるようです。ゆったりとしたホールレイアウトと適度な起伏がある丘陵コースで、素晴らしいゴルフ体験をしてみてください。


GOTO旅行支援で行く、8つの紅葉ハーモニー! 宮城蔵王・裏磐梯、五色温泉、 みちのく錦秋の絶景紀行の3日間、新幹線と大型バスで行く東北紅葉観光の映像(96)

 GOTO旅行支援で行く、8つの紅葉ハーモニー! 宮城蔵王・裏磐梯、五色温泉、みちのく錦秋の絶景紀行の3日間、新幹線と大型バスで行く東北紅葉観光の映像(96)です。

 バスは桧原湖から紅葉の磐梯山ゴールデンラインを抜けて、若松市内に向けて紅葉の森を走ります。

 車中ではバスガイドから興味深いアナウンスがありました。酒蔵が化粧水をつくり理由について説明がありました。酒造りに大切な「麹(こうじ)」はメラニン色素の働きを抑える効果があるからだと。また、バスから酒蔵の建物が見えました。これから向かう七日町通りにも金賞受賞の酒蔵があり、その鶴乃江酒造では会津中将という酒が紹介されました。バスは磐梯町に入りました。この後、朱色の橋が見えるそうです。また磐梯町には古い寺、慧日寺(えにちじ)があり、徳一菩薩により開かれた寺です。このお坊さん、弘法大師、空海と同時代に活躍したそうです。この寺は1200年のれきしがあります。若松市内には寺社仏閣が多いそうです。

慧日寺について

 慧日寺は福島県磐梯町にある真言宗豊山派の仏教寺院です。明治時代の廃仏毀釈により一時的に廃寺となりました。しかし、1904年(明治37年)に復興され、現在の寺号となりました。

 この寺は平安時代初期、807年(大同2年)に法相宗の僧・徳一によって開かれました。徳一はもともとは南都(奈良)の学僧で、布教活動のために会津へ下り、勝常寺や円蔵寺(柳津虚空蔵尊)を建立し、会津地方に仏教文化を広めていました。

 慧日寺は1200年以上の歴史を持つ聖地であり、会津の仏教の基礎を築いた重要な寺院の一つです。³ また、慧日寺跡は国の史跡に指定されており、平安時代初期からの寺院の遺構が残っています。


GOTO旅行支援で行く、8つの紅葉ハーモニー! 宮城蔵王・裏磐梯、五色温泉、 みちのく錦秋の絶景紀行の3日間、新幹線と大型バスで行く東北紅葉観光の映像(97)

 GOTO旅行支援で行く、8つの紅葉ハーモニー! 宮城蔵王・裏磐梯、五色温泉、みちのく錦秋の絶景紀行の3日間、新幹線と大型バスで行く東北紅葉観光の映像(97)です。

 バスは桧原湖から紅葉の磐梯山ゴールデンラインを抜けて、若松市内に向けて紅葉の森を走ります。

 車中ではバスガイドから興味深いアナウンスがありました。バスから会津観音が見えました。会津観音は高さ57メートルで、建てた社長が57歳だからという説もあるそうです。会津観音は会津村に立っています。またそこは庭園になっているそうです。コロナ禍には、赤いマスクをしたそうです。寺社仏閣で赤の色は、魔よけの意味があるそうです。また、魔よけと言えば、赤べこもそうです。また赤べこには福を呼ぶという意味合いもあるそうです。赤べこ発祥の地は、奥会津だそうです。正確には柳津ですが。また、会津の少年隊の話もあり、会津の藩校、日新館が観音様の近くにあるそうです。昭和62年に34億をかけて復元されたそうです。江戸時代には全国で300以上の藩校があったそうです。その中でも日新校はトップクラス、三本の指に入る日本三大藩校の一つとのこと。今でいう所の小学高から大学までの学びの感じだそうです。什の掟のはなし、「ならぬものはならぬ」など。このツアー当時、鶴ヶ城は改修工事中でした。鶴ヶ城は戊辰戦争で壊されました。その復元を会津藩士であった銀行の頭取が当時2500円で売り出されていた鶴ヶ城を買い、若松市に寄贈します。そこから若松城と呼ばれるようになったそうです。ただ、若松城より、鶴ヶ城の方が私たちには分かりやすいのではないかとのこと。鶴ヶ城ははじめは館でした。それから蒲生氏郷が7層の天守閣を築きました。現在は5層6階です。加藤時代のものです。それが昭和40年に有志の方々により、1億5千万円かけて再建されました。瓦は普通は黒ですが、鶴ヶ城は赤瓦です。

会津慈母大観音像について

 会津慈母大観音像は、福島県会津若松市にある巨大な仏像で、日本庭園「やすらぎの郷・会津村」内に位置しています。以下は詳細です。

 -  外観と特徴

     -  高さ57メートルの観音像で、全体のフォルムは丸々として優しいイメージを持っています。

     -  胎内には1万体の御仏、金色に輝く二十五分の一の像、十二支御守本尊が安置されています。

     -  胸の高さの40メートル地点まで登れば、展望窓から会津の町並み、盆地の田園風景、磐梯山、飯豊連峰などを望むことが

  できます。

 -  美貌とシンボル

     -  会津村のシンボルであり、美しい観音様として知られています。

     -  観音様は赤ちゃんを抱いており、若々しくて優しい女性的なシルエットを持っています。

     -  無辺の大空の下、宏大な空間に包まれる観音様は、存在感があります。

 - 胎内巡り

     -  胎内巡りができる観音様で、内部には1万体の御仏が安置されています。

     -  登った先には展望窓があり、会津の景色を一望できます。

     -  最上階には木札に願いごとを書いて奉納する場所もあります。

 会津慈母大観音像、その制作者は中村正直(なかむら まさなお)さんです。彼は日本の彫刻家であり、この美しい観音像を創り上げました。中村さんは、伝統的な技法と現代的なアプローチを組み合わせて、会津慈母大観音像を造形しました。この仏像は、信仰と美しさを兼ね備えたスポットとして、多くの人々に愛されています。

中村正直について

 中村正直(なかむら まさなお、1832年6月24日 - 1891年6月7日)は、明治時代の日本の啓蒙思想家であり、教育者でもありました。彼は自由平等の思想を広め、多くの分野で活躍しました。

 以下は中村正直の経歴と業績の一部です。

 -  教育者としての役割

     -  東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)の摂理(校長)を務めました。

     -  東京大学文学部の教授としても活動しました。

     -  女子高等師範学校の初代校長として、女性教育に尽力しました。

 -  思想家としての活動

     -  イギリスで西洋の自助論や自由論を学び、同人社という塾を開いて民主主義の運動に貢献しました。

     -  『西国立志編』(別訳名『自助論』)を邦題で出版し、100万部以上を売り上げる大ベストセラーとなりました。

     -  ジョン・スチュアート・ミルの『On Liberty』を『自由之理』(現在では同書を『自由論』と称するのが一般的)で訳し、

  個人の人格の尊厳や個性と自由の重要性を強調しました。

神社仏閣と赤色(朱色)の関係について

 神社や仏閣において赤色(朱色)は魔よけや病気除けの意味があります。以下にその理由を詳しく説明します。

 -  赤色の意味と効果

     -  赤は古くから生命力や活力を象徴する色とされています。

     -  日本神話の天照大御神(あまてらすおおみかみ)は太陽の神であり、太陽の赤色は信仰の色として根付いています。

     -  神社の鳥居や祝いの時の赤飯、縁起物のダルマなど、たくさんの伝統的な魔よけや病気除けに赤色が使われています。

 -  鳥居の赤色

     -  神社の鳥居が赤(朱色)なのは、古来から朱色が生命の躍動を表し、災厄を防ぐ色とされていました。

     -  魔力に対抗する色とされ、古代の宮殿などでも多く用いられています。

     -  また、赤色の原料である丹(水銀)は防腐剤としても使われていました。

 -  その他の赤色の意味

     -  赤は目を引く色であり、購買意欲を高める効果があります。

     -  エネルギーを感じさせ、気分を前向きにする働きもあります。

神社や仏閣でよく見られる色とその意味について

 神社や仏閣で使われている色は、日本の伝統や文化に深く根付いています。以下は、神社や仏閣でよく見られる色とその意味です。

 1.  赤色 (朱色)

     -  赤色は日本で非常に人気があります。多くの神社や寺院が赤い色を基調としています。

     -  古代から赤色は邪悪な霊を追い払う手段とされてきました。かつては神職も赤い衣装を着ていました。

     -  現在でも赤いエプロンや帽子が地蔵や狐の像を覆っています。また、神社の祭りでは赤い布で覆われたテーブルや赤いカ

  ーペットが使われます。

     -  赤色は平和と家族の繁栄を象徴しています。また、歌舞伎の演技では俳優の顔に赤いストライプが正義を意味します。

 2.  白色

     -  白色は神聖な色であり、神々の純粋さや精神的成長を象徴しています。

     -  かつて日本の天皇は主要な神道の儀式で白い衣装を着ていました。また、伝統的な神前結婚式の花嫁の衣装も白色です。

     -  ただし、仏教では白色は死を意味することもあり、白い布は「切腹」(武士の自決)の儀式にも使われました。

     -  葬儀のエリアは白と黒のストライプのカーテンで示されます。

 3.  黒色

     -  黒色は伝統的に日本で男性的な色とされています。武士階級にもよく使われました。

     -  現代でも男性の結婚式の衣装や子供の節句の祝いに黒色が使われています。

     -  神職は黒い帽子を着用し、啓蒙の象徴としています。

 4.  青色

     -  青色は一般の人々の色でした。かつては明るい色の着用が禁止されていました。

     -  青色は神秘的な世界を象徴しています。歌舞伎の演技では悪役は青色で示されます。

     -  インディゴ染めは日本の伝統的な技術で、青色の着物が一般的でした。

 5.  金色

     -  金色は太陽と神々の力と慈悲の象徴です。神社や寺院でよく使われます。

 6.  紫色

     -  紫色は武士の色であり、高貴さと力を象徴しています。武士に贈られる花はアイリスで、その鋭い葉は刀の刃を思わせま

  す。

赤べこについて

 福島県の会津地方で愛されてきた「赤べこ」について。

①赤べことは?

   -  「赤べこ」は、福島県の会津地方でつくられてきた、牛の形をした郷土玩具です。木型に何枚もの紙を貼り重ねて乾燥さ

  せ、型を抜いて作られる「張り子」のひとつです。赤べこは、赤い色の牛に似ており、愛嬌のある顔と黒い斑点、白の縁取

  りが絵付けされています。特徴的なのは、頭の部分と胴の部分が別に作られ、手作業で糸を使って取り付けられているた

  め、頭を触ると首から上がゆらゆらと揺れる作りになっていることです。

 -  「べこ」の意味は?

   -  「べこ」とは、会津地方の方言で「牛」を指します。「べー」は牛の鳴き声、「こ」は愛称からきていると言われていま

  す。

②赤べこは縁起物?

   -  はい、赤べこは魔除けや疫病除けの縁起物として、会津の人々に親しまれてきました。赤い色は病魔を払うと考えられてお

  り、赤べこに描かれている黒い点は「疱瘡(ほうそう)」(天然痘)を表しています。かつては死に至る病気だった疱瘡か

  ら幼い子どもたちを守るために身代わりとして赤べこに描かれたとも言われています。

③赤べこの由来

   -  1611年に会津地方を大地震が襲い、民家が倒壊するなど大きな被害を受けました。被災した虚空藏堂(柳津町)の本堂を再

  建する際、赤毛の牛の群れが現れ、大材運搬に苦労していた黒毛の牛を助け、見事に本堂を再建できたと言われています。

  そこで、一生懸命手伝った赤毛の牛を「赤べこ」と呼び、多くの人々に親しまれるようになったのです。

  -  赤べこは会津におでかけしたら訪れたいスポットもたくさんあります。例えば、以下の場所があります。

  -  会津やないづ赤べこ親子(柳津町):柳津町内に赤べこ親子がいて、散歩しながら探すのも楽しいです。

  -  ぱん工房あかべこ(柳津町):赤べこ焼印入りの食パンが有名で、地元食材を使った料理やデザートも楽しめます。

  -  あかべこカフェ(会津若松市):大きな赤べこが迎えてくれるカフェで、赤べこを中心としたお土産があります。

④ 「赤べこ」の発祥の地は、福島県の会津地方にある柳津町です。この地域では、赤べこが愛されてきた伝統的な郷土玩具と 

 して知られています。赤べこは、赤い色の牛の形をした木製の玩具で、会津の人々にとっては魔除けや疫病除けの縁起物とし

 て親しまれてきました。

  柳津町は、福島県内でも美しい自然景観や伝統文化が豊かな地域であり、赤べこを探しに訪れる観光客にとっても魅力的な

 場所です。赤べこ伝説の発祥地として、柳津町を訪れてみるのも良いでしょう。

⑤ 福島県の会津地方に伝わる「赤べこ伝説」について詳しくお話ししましょう。

 -  赤べこ伝説の発祥

    - 1611年に会津地方を襲った大地震で、虚空藏堂(柳津町)をはじめとする僧舎や民家が倒壊し、柳津町も大きな被害を受

 けました。震災後の1617年に、虚空藏堂(本堂)は現在の厳上に再建されましたが、その際、大材運搬の手伝いに力強そうな

 赤毛の牛の群れが現れました。この赤毛の牛たちは、黒毛の牛が苦労していた大材運搬を助け、見事に虚空藏堂を建てること

 ができました。感謝の意を込めて、一生懸命手伝った赤毛の牛を「赤べこ」と呼び、忍耐と力強さ、さらには福を運ぶ存在と

 して多くの人々に親しまれるようになりました。この伝説が、柳津町が「赤べこ発祥の地」と言われる由縁です。 

-  赤べこの意味と縁起物としての役割

  - 「べこ」とは、会津地方の方言で「牛」を指します。赤べこは、赤い色の牛の形をした木製の玩具で、会津の人々にとっては

 魔除けや疫病除けの縁起物として親しまれてきました。赤い色は病魔を払うと考えられており、赤べこに描かれている黒い点

 は「疱瘡(ほうそう)」(天然痘)を表しています。かつては死に至る病気だった疱瘡から幼い子どもたちを守るために身代

 わりとして赤べこに描かれたとも言われています。 

-  赤べこ親子を探してみて

  - 柳津町内では、道の駅や町の各所で、赤べこ親子が皆さんをお出迎えしています。お父さんが「福太郎」、お母さんが「満

 子」、子供が「もうくん」、「あいちゃん」、「やなぎまる」と名前がつけられています。柳津の町歩きを楽しみながら、赤

 べこ家族たちをぜひ探してみてください。 

日新館について

① 創設の背景と目的

   -   会津藩の教育は、日新館創設よりさらに遡ります。寛文4年(1664年)に、日本で初めて民間によって創設された庶民のた

  めの学問所である「稽古堂」が設立されました。

   -   5代藩主である松平容頌の時代に、家老の田中玄宰が藩政改革を進言し、その中心に「教育の振興」を掲げ、日新館の創設

  が始まりました。

② 建設と内容

  - 日新館の建設は大変な作業でした。着工から完成まで、多くの人々が協力しました。

     - 享和3年(1803年)に完成した日新館は、文武の両教科を教授する総合学校でした。

     - 花色紐組(上士)以上の藩士の子弟は全て入学が義務付けられました。

③ 日新館の心得**:

   - 10歳になると、会津藩士の子弟は日新館に入学しました。

   - 授業は朝の8時から始まり、素読の教科書には論語や大学などの四書五経に加えて孝経や小学の古典が含まれていました。

   - 子供たちは日新館心得に従い、礼儀正しく行動し、親や目上の人々に対する敬意を示すことが求められました。

現在、復元された日新館について

 日新館は、実際の藩校は焼失したものの、藩校に関する図面などの資料が残っていたため、総工費34億円を費やして1987年に完全復元されました。現代の日新館は、博物館、道場、研修施設、宿泊施設、映画撮影所など多くの機能を兼ね備えており、武道団体も頻繁に利用しています。観覧料は一般料金が大人620円、中高生500円、小学生400円で、団体料金は大人560円、中高生450円、小学生400円です。

江戸時代の藩校について

 江戸時代には、諸藩が藩士の子弟を教育するために設立した藩校が多数存在しました。これらの藩校は、内容や規模は多様でしたが、藩士の子弟は皆強制的に入学させられ、後に藩士以外の領民にも開放された藩校もありました。藩校は、医学校、洋学校、皇学校(国学校)、郷学校、女学校など、藩が設立したあらゆる教育機関を含みます。全国的な傾向として、藩校では武芸も奨励され、7歳・8歳で入学して文を習い、後に武芸を学び、14歳・15歳から20歳くらいで卒業することが一般的でした。教育内容は、四書五経の素読と習字を中心に、江戸後期には蘭学や剣術などの各種武術も加わりました。藩校の入学試験は素読吟味であり、四書の抜粋した漢文を日本語訳で3回読み上げることが主な試業でした。藩校は、明治4年に廃藩置県されましたが、その後の中等・高等諸学校の直接または間接の母体となりました。全国に約270校の藩校が設立され、各地域から時代をリードする人材を輩出し、後の明治維新にも影響を与えました。

 江戸時代には多くの有名な藩校が存在しました。以下にいくつかの有名な藩校を紹介します。

 ① 藩校明倫堂(明倫館):薩摩藩(現在の鹿児島県)にある藩校で、藩士の教育を担当していました。蘭学や国学を中心

  に、幅広い教育プログラムを提供していました。

 ② 藩校弘道館:長州藩(現在の山口県)にある藩校で、藩士の教育を行っていました。蘭学や洋学、武芸などを学ぶことが

  できました。

 ③ 藩校寺子屋:藩校の中でも比較的小規模なもので、庶民の子弟を対象としていました。読み書きや計算、道徳などを教え

  る場所で、全国各地に存在していました。

 ④ 藩校弘文館:薩摩藩にある藩校で、蘭学や国学、武芸などを学ぶことができました。薩摩藩士の教育に大きな影響を与え

  ました。

江戸時代の学問と武芸について

 江戸時代において、学問と武芸は両方とも重要視されていましたが、その重要度は文化や社会的背景によって異なりました。

 1.  学問(国学)

  - 国学は、江戸時代に盛んになった日本独自の学問でした。国学は、日本の歴史や文学、古典文化を研究する学問であり、

  中国から伝わった儒学に対抗して発展しました。

     - 国学者たちは、日本の古い時代は優れた国であり、人々の心が素直で正直であったが、儒教や仏教の影響で悪い心が生ま

  れたと考えていました。

     - 代表的な国学者には、契沖、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤、塙保己一などがいます。彼らは古典文献の研究

  や日本の伝統文化の保存に尽力しました。

 2.  武芸

     - 武士階級は、自分の領地を守り、拡大するために武芸を磨く必要がありました。武芸は、戦闘技術だけでなく、武士の生

  活にとって欠かせないものでした。

     - 武士は剣術、弓術、騎馬術、柔術などの武道を学び、常に戦闘の用意を怠りませんでした。

     - 武芸は武家文化の一部であり、武士の身分を維持し、領地を守るために重要でした。

 総括すると、江戸時代には国学と武芸の両方が重要視され、日本の文化と社会に深く根付いていました。

国学と儒学について

1. 国学

    - 国学は、江戸時代に日本の古典文献を研究し、儒教や仏教が日本に影響を与える前の日本人独自の民族精神を明らかにしよ

 うとした学問です¹⁵.

    - 国学者たちは、日本の古典文学や神話、歴史を研究し、日本固有の思想や文化を探求しました。

    - 代表的な国学者には、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤などがいます。

    - 国学は、民族精神の探求にとどまらず、江戸時代の社会不安を儒教道徳に求めるようになり、政治的思想にも発展しまし

 た。

2. 儒学

    - 儒学は、中国の孔子が説いた教えを学び、発展させた学問です。

    - 儒学は、人間の道徳的な修養や社会の秩序を重視する教えです。

    - 朱子学などの儒学派は、主従関係や上下関係を重んじ、封建制度の維持に適した学問とされました。

    - 儒学は、具体的な方法や理論を提供する学問であり、学問的な研究や教育を重視します。

 簡潔に言えば、国学は日本固有の思想を探求し、儒学は中国の教えを学び、人間の道徳や社会秩序に焦点を当てた学問です。

江戸時代の女性の教育について

 江戸時代には、女性の教育機関は限られていましたが、いくつかの形態が存在しました。以下に詳細を説明します。

1. 寺子屋

    - 寺子屋は、庶民の子供たちが基本的な読み書きやそろばんを学ぶ場でした。男女ともに通学し、読み書きの基礎を身につけ

 ました。

    - 上流階級の女性には、寺子屋で学んだ知識に加えて、和歌、習字、生花、茶の湯、音楽、舞踊などの教養も身につけまし

 た。

2. 私塾

    - 一部の女性は私塾で学びました。私塾は、蘭学や国学、漢詩などを教える場で、男女ともに受講できました。

3. 家庭教育

    - 家庭では、女性は家業に必要な技術を学びましたが、特に知育に力を入れることはありませんでした。

    - 上流階級の女性は、家庭で和歌や習字、音楽などを学び、教養を高めました。

会津藩の什の掟について

 江戸時代の会津藩では、藩士の子供たちが学ぶために「什の掟」と呼ばれる規則がありました。これは、幼い子どもたちが自己規律を守り、会津武士としてふさわしい心構えを身につけるためのものでした。以下が「什の掟」の内容です。

 1.  年長者の言うことに背かないこと:年長者の指示に従うことが求められました。

 2.  年長者にお辞儀をすること:礼儀正しく振る舞うことが重要でした。

 3.  嘘をつかないこと:誠実さを守るために嘘を避けました。

 4.  卑怯な行動をしないこと:勇気と誠実さを持って行動することが求められました。

 5.  弱い者をいじめないこと:他人を尊重し、優しさを示すことが大切でした。

 6.  戸外で食事をしないこと:礼儀正しく食事をする場所を守りました。

 7.  戸外で婦人と言葉を交わさないこと:礼儀を欠かさず、適切な振る舞いを心がけました。

 8. なにより:してはいけないことはしてはいけません。

鶴ヶ城の歴史と再建について

 鶴ヶ城(または若松城、黒川城とも呼ばれる)の歴史と再建についての詳細です。

① 歴史と沿革

    - 鶴ヶ城は、1384年に蘆名直盛によって築かれた小田垣の館または東黒川館を起源としています。その後、黒川城として成立

 し、代々蘆名氏の城となりました。

    - 1593年には望楼型7重の天守が完成し、名前が「鶴ヶ城」に改められました。

    - 会津松平家(保科氏から改名)の居城となり、戊辰戦争の激戦地となりました。

    - 1874年には政府の命令により天守閣を含む建物が取り壊されましたが、1965年には鉄筋コンクリートで外観復元され、現在

 の姿が再現されました。

② 再建と保存

    - 昭和40年に天守閣が再建され、平成13年には干飯櫓と南走長屋が江戸時代の工法・技術を用いて復元されました。

    - 2011年には幕末期と同じ赤瓦へと復元され、現在の鶴ヶ城の姿が再現されています。

③ 最新情報

    - 2023年春には鶴ヶ城天守閣が館内を全面リニューアルして、歴史とデジタルを融合した体験型博物館として生まれ変わる予

 定です。


GOTO旅行支援で行く、8つの紅葉ハーモニー! 宮城蔵王・裏磐梯、五色温泉、 みちのく錦秋の絶景紀行の3日間、新幹線と大型バスで行く東北紅葉観光の映像(98)

 GOTO旅行支援で行く、8つの紅葉ハーモニー! 宮城蔵王・裏磐梯、五色温泉、みちのく錦秋の絶景紀行の3日間、新幹線と大型バスで行く東北紅葉観光の映像(98)です。

 バスは若松市内を走り、七日町通りに向けて走ります。

 車中ではバスガイドから興味深いアナウンスがありました。当時、改修中の鶴ヶ城は2023年4月頃に訪れるとよいそうです。白虎隊と関りのある飯森山について、サザエ堂、会津まつり、NHK大河ドラマ「八重の桜」綾瀬はるかさんは毎年祭りに参加について話されました。バスは会津若松駅前を通りました。

白虎隊について

 白虎隊(びゃっこたい)は、日本の幕末維新における戊辰戦争の一環である会津戦争に際して、会津藩が組織した部隊です。以下に詳細を説明します。

 ① 白虎隊とは何か?

   - 白虎隊は、会津藩が結成した16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊です。会津藩は現在の福島県に位置してい

 ます。1868年の会津戦争に際して、白虎隊は結成されました。

   - 名前の由来は、中国の伝説の神獣である「白虎」からきています。10代の若者たちが、なぜ部隊として結成されたのでしょ

 うか?

 ② 白虎隊の結成について

   - 1868年に起きた鳥羽伏見の戦いの後、会津藩は新政府軍の襲来に備えて、戦力を重視した軍制改革を行いました。その結

 果、玄武隊、青龍隊、朱雀隊、白虎隊の部隊が年齢別に編成されました。

   - 白虎隊は予備隊として結成され、戦闘には出ず、主に警備を担っていました。しかし、戊辰戦争が始まると状況は悪化し、

 白虎隊は戦場に駆り出されました。

   - 白虎隊の一番隊は会津藩主の松平容保の警護に就き、二番隊は戸ノ口原へと向かいました。しかし、二番隊は新政府軍の攻

 撃を許し、飯盛山へ退避しました。

   - 飯盛山で白虎隊の少年たちは絶望し、20人の少年が自刃(切腹または喉を突くこと)することを決意しました。飯盛山の自

 刃は白虎隊の悲劇として語り継がれています。

白虎隊の役割について

 白虎隊は戊辰戦争において、いくつかの役割を果たしました。以下にその詳細を説明します。

1.  警護と防衛

   - 白虎隊の一番隊は会津藩主の松平容保の警護に就いていました。彼らは藩主の身辺を守り、新政府軍の攻撃から彼を守る役割

 を果たしました。

   - また、白虎隊は会津藩の城や要塞の警備にも従事していました。彼らは敵の接近を監視し、攻撃を防ぐために待機していまし

 た。

2.  戦闘への投入

   - 戊辰戦争が激化すると、白虎隊は戦場に駆り出されました。特に二番隊は戸ノ口原で新政府軍と交戦しました。

   - しかし、二番隊は新政府軍の攻撃を受け、飯盛山へ退避しました。ここで彼らは絶望し、自刃することを決意しました。

3.  飯盛山の悲劇

   - 飯盛山での白虎隊の自刃は、彼らの悲劇的な運命として語り継がれています。20人の少年たちが若い命を捧げたことは、日

 本の歴史において忘れられない出来事となりました。

飯森山にある観光名所について

 福島県会津若松市にある飯盛山(いいもりやま)は、戊辰戦争の悲劇的な物語が語り継がれる場所で、多くの観光名所があります。以下に詳細を説明します。

1.  白虎隊十九士の墓

 - 白虎隊は、戊辰戦争(会津戦争)において会津藩が結成した四部隊の一つで、若い少年たちで構成されていました。

 - 飯盛山には白虎隊の一部隊が自刃した場所があり、彼らの墓が残っています。彼らの覚悟と犠牲は日本の歴史に刻まれてい

 ます。

2.  イタリア記念碑

    - 1928年にローマ市民から贈られた石碑で、白虎隊士をたたえています。青銅の鷲が羽を広げています。

3.  ドイツ記念碑

    - ドイツ大使館付武官から寄贈された石碑で、白虎隊精神を賛美しています。

4.  太夫桜

    - 市天然記念物である太夫桜は、飯盛山のふもとにあります。

5.  スロープコンベア

    - 飯盛山への登山は183段の石段がありますが、スロープコンベアを利用すれば楽に山頂に到達できます。

6.  戊辰戦争の折の本陣跡

    - 戊辰戦争時には会津藩の本陣となり、藩主松平容保公が白虎隊士に戸の口原への出陣を命じた「旧滝沢本陣」があります。

サザエ堂について

 福島県会津若松市にある会津さざえ堂は、世界的にも珍しい建築物で、その特異な構造と美しさから観光スポットとして知られています。以下に詳細を説明します。

① 名称と特徴

   - 正式名称は「円通三匝堂 (えんつうさんそうどう)」といい、重要文化財指定名称は「旧正宗寺三匝堂」です。

   - 高さ16.5メートル、六角三層の木造建築で、飯盛山に建立されました。

   - このお堂は、世界で唯一の二重らせん構造を持つ建物として知られています。外観はサザエの貝殻に似ていることから「会

 津さざえ堂」とも呼ばれています。

② 建物の特異な構造

   - 内部は斜めになった窓を見ながら、傾いたスロープを上ることができます。上りと下りが全く別の通路になっている一方通

 行の構造で、たくさんの参拝者がすれ違うことなく安全にお参りできるようになっています。

   - かつてはこの独特な二重螺旋のスロープに沿って西国三十三観音像が安置され、参拝者はこのお堂をお参りすることで三十

 三観音参りができると言われていました。

③ 歴史と重要性

   - 会津さざえ堂は寛政8年 (1796) に建立され、当時飯盛山にあった正宗寺の住職であった僧郁堂の考案によるものです。

   - その特異な存在が認められ、平成8年に国重要文化財に指定されました。

郁堂和尚について

 郁堂和尚は、福島県会津若松市飯森山にある正宗寺(しょうそうじ)の住職でした。1796年(寛政8年)、郁堂和尚が提案し、飯森山の中腹に完成したのが「円通三匝堂」です。この建物は、不思議な二重構造のらせん階段を持つ仏教建築で、国の重要文化財に指定されています。郁堂和尚の独創的な発想と建築スキルによって、会津さざえ堂は日本の建築史に名を刻んでいます。

会津まつりについて

 会津まつりは毎年9月下旬に開催される会津最大の祭りで、3日間にわたりさまざまなイベントが行われます。以下は会津まつりの主なイベントです。

 1.  提灯行列  : 会津まつりの夜には、提灯を持った人々が行進する美しい行列があります。

 2.  会津磐梯山踊り  : 伝統的な踊りで、地元の人々が踊りながら祭りを盛り上げます。

 3.  日新館童子行列  : 子供たちが武士の装束を着て行進する行列です。

 4.  鼓笛隊パレード  : 鼓と笛の音楽隊がパレードを行います。

 5.  先人感謝祭  : 先祖を感謝し、祭りを祝う儀式です。

 6.  会津藩公行列  : 歴史的な行列で、会津藩の武士たちが参加します。

 会津まつりは、1928年に始まった祭りで、秩父宮雍仁親王と松平容保の孫娘である松平勢津子の成婚を祝って行われた提灯行列がそのルーツとされています。この祭りは、戊辰戦争で落命した会津藩士などの霊を慰め、先人に感謝する意味も込めて行われています。現在は3日間にわたって開催され、さまざまなイベントが行われています。